自分の言葉にしてみること

言葉にしてみたい衝動の行き先

志を棚置きするということ

学生時代に色々と頑張った。

立派な人物になることを夢見て。

結局、十分な結果が出せなかった。

自分の怠惰と能力が原因で。

何度も今日から変わると決断をした。

意識さえ変われば能力の伸びは埋め合わせできると信じた。

けれど、高い意識は長続きしなかった。

失敗を繰り返し自分を信じられなくなった。

そうして迎えた就活。

 

ダメな自分を認められなかった。

だから高望みをした就活。

身の丈に合わずうまくいかない日々。

折れた。

高い志に達するのに、まだ十分な器を持っていないことがわかった。

いったい自分の本当の器ってなんだろか。

 

意識の向かっている方向とその力強さのことを自分と呼んでいた。

しかし、意識している所には達することができないことが薄々分かってきた。

認めたくない。認めたくないけど、自分の過去は認める他ないと告げている。

認め始めた。

できない自分が浮かび上がる。

汚くて弱い、頼りない自分が見えてくる。

その自分の就活は暗い。

どこの会社に行っても、自分の仕事の様子を想像すると憂鬱になる。

自分の未来はこんなはずではなかった。

残念ながら、僕の人生はこんなもんなんだ。

しかし、こんなもんではないか。

人生は物語である。

どんなに惨めに感じることがあろうとも、それはいつの日か人生のスパイスになっているかもしれない。

それをスパイスたらしめるのは、僕の意志の強さと戦略の精度である。

僕の人生はこれからだ。

これもまた人生だ。

人生は何が起こるかわからない。

だからこそ、生きられずにはいられないのである。

 

ADHDが新卒で会社に入るということ

新卒は最初の数年間は使い物にならない。

短期記憶能力の低いADHDにおいてはなおさらだ。

さらに衝動性のあるADHDは容易に離職する。

会社にとって当該気質を持つ人の採用は賭けなのである。

そんなリスクを背負いながらも会社は彼らを雇う。

面談の時に語った彼らの熱意を信用して。

キラリと光った才能が開花することを望んで。

時には、情けとして。。。

僕らは、それらに感謝をするのである。

そうして誠意を見せなくてはならない。

恩返しができないからだ。

単純な作業ができず、

言われたことを把握できず、

空気が読めない。

ものを無くし、

時間は守れず、

すぐに忘れる。

最初に唯一新卒ができるようなことはほとんどできず

さらには迷惑をかけ余分な仕事をさせてしまう。

工夫して直そうとしても十分なほどに達する人はわずか。

だから、精一杯申し訳なく思うのだ。

心を込めて謝罪をした後、先輩にきちんとしたお礼を、そして自分の少し成長した姿をきちんとお見せする。

こうして、愛嬌のある後輩になる他、生存し得ないのだ。

定期的にプラスのことをやってみる。

意味はないかもしれないけど会社の迷惑にはならないプラス1を。

自分の扱い方がわかるような説明書をつくる。

毎日自分の反省を書いた日記を公開する。

新規事業や業務サイクルの改善等の案を提出する。

僕らは人より何かに劣る分、自然に意識が高くなる。

その意識の高さを公開するのだ。

それが職場の士気を高める。

ぼくらは、それくらいの覚悟をして職場に入らねばならない。

雪山に登るような覚悟をするのだ。

常にきつく、常に冷たく、常に危うい道である。

頂上は見えず、進んでいる道は正しいのか、降りるか降りまいかの自問自答が繰り返される。

降りれば皆から見下され、それもまたつらい毎日だ。

楽に登れる山はあるが、それもまた見下される。

高い低いなんて気にしない。

そんな思いも娑婆に出ればすぐに打ち消される。

だから、気力のあるうちは雪山を登り続けるしかない。

それが僕らの歩み方だ。

 

 

 

 

 

 

 

良心的なADHDの就活生の葛藤

衝動性があるがゆえに、学生時代にいろいろ動き回る。

そうして社会と触れる機会が増えると、「社会貢献」という四字熟語がちらほら。

高い志を持って就活を始めると、自分のできないことの多さに気がつく。

自分が入社すると、「会社迷惑」をかける不安が募る。

行きたい会社のことを考えると、自分が入社しないことが最善だと考える。

そうして、起業の選択肢を考える。

一人で世の中にない価値をつくれば、迷惑をかけずに貢献ができる。

そうして情報を集めると、大体の人は失望する。

ベンチャーの8割以上が1年で倒産する事実。

社会にも出ていない自分が果たしてできるのかと。

天才的な経験がない人間は尻込みをする。

起業するにも会社で修行を積むのが確実だと。

そうして、また就職の選択肢を模索しようとする。

そのためには、「社会貢献」の理想と「会社迷惑」の事実の葛藤を無くさなくては。

納得のいく解釈を模索する。

 

そもそも、社会ってなんだ。

昔は社会を世間と呼ぶのが常だった。

また世間は人間という意味もあった。

人と人の間。そう書いて人間と書く。

社会は人と人の間のことである。

つまり「社会をよくしよう」というのは「人と人の間」をよくしようということだ。

「間をよくする」ってなんだ。

間がなくなれば摩擦はおきない。

だから究極は合体だ。区別がなくなることだ。

これを「愛」と人は呼ぶ。

しかし合体には「個」の喪失が伴う。

「個」の喪失は、「死」とも解される。

良くも悪くも僕らは生きる意志がある。

生きる以上、「個」はなくてはならない。

生物としての資格を破棄しない限り、究極の「愛」は難しい。

ゆえに「愛」は「志向されるもの」であって「実現できない(されてはならない)もの」なんだ。

だから、なんとなく区別がつく、くらいが次のゴールだ。

それは「グラデーション」と呼ばれる。

区別はありながら、明確な境目はない、という奴だ。

境目はなめらかに溶け合っている感じだ。

個があるようでなく、ないようである、という二つの矛盾した状態が同時に存在する。

 

こうなるのにイメージするのは二つの液体だ。

密度の大きい液体と小さい液体が区切りで仕切られている。

その区切りを取ると、動きが起こる。

密度の大きいものが下に行くことで、小さいものが上にいくのだ。

こうしてグラデーションはできあがる。

自然な状態で落ち着いていて、長続きする形だ。

 

強いものが弱いものを支える形が、自然なグラデーションだ。

これを目指すと「多様性」「責務」「貢献」といろんな言葉が生まれる。

 

強きものがこういうエネルギーある言葉を用いて、弱き者を支える。

こうして調和が訪れる。

つまり、弱き者は強き者に従うのだ。

それが、弱き者の貢献の形である。

 

会社の荷物になってもいいのである。

弱き者がいてこそ強き者が存在できる。

弱き者が従順だからこそ共同体は自然に落ち着く。

弱き者が意志を持たないことが全体のためである。

 

強き者はそれをしかと受け止めなくてはならない。

強き者は存在するだけで弱き者を虐げていることに嘆き悲しむ。

強き者は弱き者を敬い慕うのだ。

強い者は弱き者のために事を為すのだ。

 

両者が「感謝」で手を取り合うのが「生きる」を担保した上での理想の社会だ。

それを目指すなら、僕らは積極的に従順で誠実なお荷物になるのである。

そうして、少しずつ力を蓄え、「強き者」になったら態度を変える。

「弱くなった強き者」に恩返しを、「強くなる弱き者」に温情を。

こうして社会は回り続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

全ての仕事は必ず負の側面がある。

変化を起こすのだから当たり前だ。

負の側面はあるが正の側面もある。

この両方を把握して事に当たるのだ。

それが責任ある態度である。

こう構えた上でやりたいことをやるのだ。

 

「本質」という言葉が嫌い

「本質が大事」だとよく言われますが「本質」という言葉が今は好きではないです。
「本質」を知らない人がこの言葉を使って、人を騙したり、会話がずれたりと、色々な残念なことを目にすることがあったからです。(僕もそのうちの一人です)

 

なぜ、そういうことを見てきたのか。

それは、この言葉が「曖昧」で「便利」で「強力」な性質が起因しています。

「曖昧」から順につらつらと述べてみます。

本質という意味は、「表層でない」という意味からははみ出さないものも、「表層でない」部分のうち、どこを指すかは文脈によって異なります。

例えば、

就活をしていると、だいたい①ボトルネック潜在的なニーズ ③ 構造 のいずれかで使われることが多い気が。

評論や哲学といった分野では、①それがそれであるために最低限持たないといけない性質 ②根本 ③ なんらかの深いところにある共通するもの

といった具合でしょうか。意味が被っている部分もありますが、そこは今度、また精査します。

議論をする際、文脈を理解しながら、どれを指すかが判断できるコミュニティーであれば別に苦労をしないものも、僕の周りのほとんどの学生の場合だとそうはいきません。大体が「本質」という言葉を使い慣れていないので、そもそも「本質」が特に様々な意味を含む言葉というのが分かっておらず、「本質」と言った時点で、思考の道筋が一時的ですが分かれていきます。分かれてしまったら、それを具体的な言葉で言い換えてから、軌道修正をして、、、、時間の無駄でしかありません。

 

こんな効率が悪くなりやすい言葉なんですが、グループディスカッションのように評価される場では「便利」なんです。「本質」と言った本人はなんとなく自分の行きたい地点を分かっていて、それを指すために使います。これから議論で目指すべき、あるいは明らかにするその何かに大体自信がない時に、色々な意味を含む「本質」を使えば、間違える可能性は低くなります。仮に、その人の考える「本質」は考える必要がなくても、聞いている側が勝手に正しい「本質」に変えてくれる。しかも、この言葉を使っていれば「頭いい感じ」がしてアピールできる。やばいっすよね。

 

そういうことがありますから「本質」というのは就活の中では「わからないけど絶対的」になります。そういう意味で「強力」すぎる。この言葉を人事が使ったらさぁ大変。社会人経験を積んでいる人事は学生の知らない世界を知っている、そういう背景から学生にとっては人事は「神」のような存在です。その神が「◯◯は『本質的で』〜」と中身はわからないけどただ素晴らしいということだけが分かっているおつげ(本質)を唱え、その刹那、僕らは虜になります。「あぁ、この会社は本質をわかっている会社なんだ」と、格が上がるのです。詐欺をしたい人は、無知な学生に「本質」という言葉を使うことをオススメします。

 

さらに、「本質的でないものはダメ」という常識が就活界隈ではありますが、そもそもそれが間違っている。例えば、警察。犯罪が起きてから対処を行っている時点で犯罪に対して本質的なアプローチができているのか。商品で言えば風邪薬。対症療法だけど、具体的な状況に応じて必要になる時もありますよね。「本質」ということだけに「価値」は付されません。具体的な状況に応じて「本質」の価値は大いに変動します。それがわかっていない学生が多すぎる。

 

そんあボヤキを面接前につらつらと。これはきちんと書きたいなぁ。

 

 

本当に、本当に大切なことは当たり前の論理を使えばわかる

当たり前なこと。統計とか科学とかなしでわかること。

何が一番大切かという問いについて。

それは、よい人間関係。

想像をしてみる。

差別されていても、不自由であっても、能力がなくても、病気であっても、戦争中であっても、尊厳を踏みにじられても、心から、心からお互いを想いやり合う、家族と恋人と友人がいたら十分だ。

これは本当に当たり前のこと。

実際に、何かの部分が大切にできなくても、それを大切にしようとする真剣な想いが相手に伝われば十分だ。

 

心から思いやるには相手がいる。

どんな人間にも好きになれるというわけではない。

自分に嫌なことをする人は好きになれない。

よき相手は、少なからず、最低限の大切な何かをもっていなければならない。思いやり、礼儀、約束を守ること、正しい行いをすること、考えること、こういうそれぞれは、人間がよい関係を保つために、人間がつくった大切なことだ。これらをよいとするから、これらがある人間を人間はよい人間と言う。だから、この大切なことのどれかが欠けると、人間関係がうまくいかない。こういう諸々を大切にするのは簡単なことではない。例えば、貧しすぎると自分優位になりやすく、知識がなければ正しい行いができない。約束がなければ守れないし、真似ないと礼を体得できない。だからこそ、お金とか能力とか知識とかそういう付随するものも必要になる。

 

 

 

現実が「真に迫って」きてくれない自分へ

目の前で起きていることが迫ってこない、そんな感覚を持ち始めた人がいるかもしれない。

自分がそうだ。昔は、現実に小心者だった。あまりにも敏感だった。例えば、中学生の頃は、3週間前からテスト前の緊張感を感じていた。「今」のみならず、遠い「未来」が今の自分に迫ってきており、それを自分は確かに積極的に受け止め、自分でしっかり掴んでいたんだ。

 

しかしだ。ある時、色々なことができなくて、自分がとても嫌になった。自分が嫌になって、自分の見る世界に嫌気がさした。自分の世界からとにかく距離を取りたかった。そんな想いが張り詰めた時「プツン」と何かが切れた気がした。気が付いたら、自分の感覚が自分の元には無かった。自分の心と現状が繋がらなくなった。それから、約束や努力を蔑ろにし始めた。言語的にはそれが必要だと解釈できるのだが、その言葉を支えている「感じ」がなくなったのだ。これは、正常な人にはよくわからない感覚だと思う。過去の自分が聞いてもわからないだろう。でも、一応、説明を試みると、例えば「約束」を破れないのは、実害として「人が自分から離れる恐怖」があったり、絶対的な倫理観として「そういうものだ」みたいなものがあったりして、破れないのだと思う。しかし、先の「人が自分から離れる」ことや「そういうもの」というのが、自分の場合は、自分とは遠く離れたことのように感じてくるのだ。だから、別に自分のことではないので、対処する必要がなくなる。こうして、約束や努力の理由は健常人からしてみれば「わかっている」のに、自分だけが「わかっていない」状態が起こるのだ。

 

しかし、時々「感じ」が戻ってくることがある。それは、目的のある期間限定のコミュニティーに自分が所属し、自分がそのコミュニティー間で必要な存在である時だ。この時は、夜遅くまでその目的達成のために頑張る意義を感じることができて、朝まで作業ができる。なぜ、こういう条件の時に限って「感じ」が戻ってくるのだろうか。ここに「感じ」を戻すヒントがある。

 

たぶん、これは「確かな何かに近づいている」からなんだと思う。自分の一つひとつの言動は、確かな何かのためにある。これを無意識にしろ、感じているので、「感じ」が戻ってくるのだ。

 

そう考えると、ストレス過多の時になぜ「感じ」がなくなったのか、がわかってくる。それは「希望」を失ったからだ。「望むもの」それが何かはわかっていないが「望むもの」があったことは確かだ。それを得るために、自分のあらゆる言動が行われていたのだが、ある時、望みと自分はあまりにも遠く離れている、得られないじゃないか!と望みを絶ってしまったのだ。自分が「確か」だとおもっていた「何か」である「望み」が失われ、自分の言動を支える「何か」が損なわれてしまったのだ。

 

こう考えると、恐ろしいことがわかる。誰もが自分のあらゆる言動を支えている「確かな何か」を損なう危険性を持っているということだ。社会に出て力不足を感じた時、年齢を重ね元気が無くなった時、そして、人生の目標を達成した時、、、この「現実が『真に迫って』きてくれない」病は、たぶん、特に現代においては多くの人が経験するだろう。

 

何か、処方箋はないか、これは、人によって色々と異なると思うのだが、自分のような人間には、すごく分かりにくいので3度ほど読み直してほしいが、「建前では「大志」を目的とし「本音」では「手段として『大志』を抱き、目的として、それに真剣に近づこうとする『姿勢』を保つ」これが確かな何かだ!という風に構えた『姿勢』を大事にする」というのが経験上、マシかと思われる。ぶっちゃけ「姿勢」が大事、だけでいいのだが、、、。正確に自分の姿勢について記述してみたかったようだ。確かに、若干の活力は、ただ「志」を追い求める勢と比べたら劣るが、この分かりにくい人生を支える基盤は、長い目で見た時に、色んな迷いを取っ払ってくれる。

 

これは、説明するものではないと思う。境地の話で、意識をしながら生活していくと、徐々にこの分かりにくい基盤の滲み出る素晴らしさがわかってくる。かめばかむほど味が出るやつだ。

 

これは一般化できるかどうかはわからない。何か問いを立て、アンチテーゼを設定し、止揚を繰り返していくと、どうもここに着く気はするが、それをブログに記述する勇気と気力がもうない。

 

よく、なにか失態をした時に、知らず知らずのうちに、昔の自分のせいにする。このブログを機にそれをやめにしたい。