自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

海老に学ぶ活き活きとした生き方

安岡さんの「運命を創る」という本に面白い話があったので紹介します。

 

海老というのは、普段は「体が曲がっているから、男女の腰の曲がるまで、すなわり老年に至るまで長生きをしてともに添い遂げるという意味でめでたい象徴」として使われています。

しかし、こういう説もあるそうです。

「えびは、あんな硬い殻をやぶっているように思うが、実は生きている限りは際限なく殻を脱ぐのだそうです。あの殻が硬くなると、いつでもすっぽりと抜いでまた柔らかくなる。季節で言うと、たいてい秋になると物がこわばり、落葉したりするのでありますが、えびは秋になてもやはり殻を脱ぐ。すなわち生きている限りは、いつまでも殻を抜いで固まらない。常に弾力性を持っているということから、いつまでも老いない。固まらない、常に若さを持ち続けるという意味で、すなわり永遠の生命、永遠の若さをシンボル」とするのだそうです。

 

後者の方が個人的には好きです。ちょっと拡大解釈をしながらキーボードを叩いてみます。

人間は生きていると様々な殻をかぶることになります。主に2つの殻があると思っています。自分の肩書きによって付される「肩書殻」と人格に付される殻「人格殻」です。

肩書殻は、医者であれば「医者殻」、研究者であれば「研究殻」、弁護士であれば「弁護士殻」と多種多様。専門家の多くは、自身の専門分野のみに特化してしまい、他分野の学問を学ばなくなります。これでは、物事の一側面しか把握することしかできず、全体像を把握できない。だから真理に到達しない。例えば、原発であれば、あの問題は、エネルギー学、経済学、放射能学、物理学、政治学、医学、統計学、等の様々な視点を持って総合的に考えなければなりません。それぞれの専門家はそれぞれの専門分野に応じた情報や仮説を考えますが、それらは有機的な繋がりはなく浮遊してしまっていて、なんとも扱いにくい状態になっています。分野横断的に学問をしてこそ真理たるものが見えてくるのではないかと思うのです。私は、真理の追究が人間らしい知的生産活動の本質だと思ってまして、それを怠ると「人間らしい活き活きとした生き方」から遠ざかってしまうと思っています。

 

「人格殻」はその人の人間的な成長や精神のエネルギーに覆い被さる殻です。ある程度年を取ったら余生は心行くまま生きようと、安きに流れていくのが普通なのかと思います。もし一般の老後の生き方を若い時に行っていたら、それは「堕落した生活」と称されてしまうでしょう。

本来、どんなに年を老いても自己成長・自己探求しようとする熱意を持ち、自己批判を繰り返し、自己革新を続け、高みを目指す若き精神を持ち続けて行くことが理想なのかもしれません。そうして一生の中で最も素晴らしい自分になって死を遂げると誇らしく感じるのではないかと思います。「終わりよければ全てよし」という言葉がありますが、そうであるならば、死ぬ時は立派に死にたいものです。精神的には老いたくないですね。精神的に老わなければ、実際に寿命だって長くなり、自分のやりたいことがやれる可能性も高まる気がします。

最後に、安岡さんの言葉を引用します。 

我々は、"老いる"ということが必至の問題であるにもかかわらず、とかく老を嫌う。老を嫌う間は人間もまだ未熟だ。年とともに思想・学問が進み、老いることに深い意義と喜びと誇りを持つようになるのが本当だ。

今日はここまで。