自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

代表的日本人を呼んで〜上杉鷹山編〜

「あらゆる人々のなかで、鷹山ほど、欠点も弱点も数え上げることの難しい人物はありません」と内村鑑三は紹介する人物、上杉鷹山。仁政によって藩の復興を成し遂げた大名である。鷹山の根本に流れる思想はどのようなものだったのか。彼は藩主になる日、次の誓文を、一生の守護神である春日明神に送っている。

1.文武の修練は定めにしてしたがい怠りなく励むこと

2.民の父母となるを第一のつとめとすること

3.次の言葉を日夜忘れぬこと

贅沢なければ危険なし

施して浪費するなかれ

4.言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼、を犯さぬようつとめること。これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときいには、ただちに神罰を下し、家運を永世にわたり消失されんことを。

 彼は上記の誓いを生涯守っていくことになる。そして数々の偉業を成し遂げた。今回は以下の3つの彼の特徴について所感を述べる。

 

・非常に質素な生活

 鷹山はかなりの倹約家だったと聞く。生涯を通して、木綿と粗末な食事を取り続けた。古い畳は、修理がきかなくなるまで取り替えることはせず、敗れた畳に自分で紙をあてがっていたという。

贅沢の本質は自由の獲得である。一方で、倹約の本質は無欲の美しさである。鷹山はなぜ倹約家として生きたのか。それは、ただ彼の「贅沢はいけない」という倫理観にしたがって、倹約に努めていたように思える。注意したいのは貧困と倹約は異なるということだ。貧困は生きるために欲を抑えなければならないが、倹約は自分の自由意志に基づいて欲を抑えることにある。倹約は金銭的に余裕がある状態にあるので、もしものことがあっても対応できたり、徳業の幅が広がったりする。倹約の方が尊い。

 

・経済と道徳を分け隔てない考え方

著書を引用する。

東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは常に富は徳の結果であり、両者は木の実と相互の関係と同じであるとみます。・・・・・「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない。」・・・・鷹山の産業改革の全体を通じて、とくにすぐれている点は、産業革命の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたのです。快楽主義的な幸福感は、鷹山の考えに反していました。富をえるのは、それによって皆「礼節を知る人」になるためでした。「衣食足りて礼節を知る」といにしえの賢者も言っているからであります。当時の慣習には全然こだわらず、鷹山は自己に天から託された民を、大名も農夫も共に従わなければならない「人の道」に導こうと志しました。

 

昔は足りていないもの・必要なものが明らかだった。物も情報も少なかったので簡単にそれらを見つけることができた。だから、徳の実践も簡単だった。しかし、今はどうだろうか。日本はお金さえあれば、何不自由なく暮らすことができる。必要や不足は目の前に「ある」というより考えて「生み出す」という感覚が近くなったような気がする。情報を集めて考えないと生み出せないから、ヒト・モノ・コトの必要や不足を認知できている人は少ないような気がする。さらに、言語情報としてその必要や不足を認知しても、それらを体験として”実感”することはほぼ無い。したがって、徳の実践は難しくなったのではないか。さらに徳を実践して富を得るのも難しくなっているように感じる。消費者のニーズを聞いてから商売をする、というビジネススタイルが少ない。スティーブジョブズの名言だが、「消費者に、何が欲しいかを聞いて、そしてそれを与えようとしてはいけない。それが完成するときには、彼らは何か新しいものを欲しがっているのだから」というものがある。まさにこのような、消費者のニーズを会社側がつくるといった姿勢が必要とされている風潮あるように思える。逆説的に考えると、消費者の潜在意識に眠っているニーズを会社が当てられなかったら、富を得ることはできないということだ。だから、現代ならば「民を愛する」ことのみでは流石に食っていけない。当たり前と言えば当たり前だが、「戦略」も必要である。

 「快楽主義的な幸福感」という言葉は現代に向けて発せられた言葉ではないかと疑ってしまう。快楽は易きに流れることで簡単に手に入る。人は得てして易きに流れがちだ。易きに流れるということは、無秩序であるということである。「無秩序」は、「自由」という言葉に置き換えられて是認されている。無秩序であることは、組織の弱体化を促す。さらに無秩序は伝統を破壊する。伝統は歴史が担保している民族の絶対的存在だ。それが壊れれば、その民族の精神は混沌に迷い込む。真善美と偽悪醜の区別がつかなくなる。少々話を膨らませ過ぎたが、この「快楽主義的な幸福感」は上記のような危険な可能性も秘めている。だから、何がかんでも「自由」であるのはまずい。まるで大木のように、「伝統」という名の幹があり、「礼」という名の枝があり、「自由」という名の木の葉があって、社会の恒常性は保たれる。

 

「富を得るのは礼節を知るため」という考え方は素敵だ。富は人としての道に近づく為の手段であるということか。メモメモ。

 

・封建制と立憲制

著書を引用する。

立憲制に代わりました。・・・・封建制とともに、それと結びついていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです。その間に「制度」を入れたとしましょう。君主はただの治者にすぎず、家臣はただの人民であるに過ぎません。もはや憲法に定める権利を求める争いが生じ、争いを解決する為に文章に頼ろうとします。昔のように心に頼ろうとしません。・・・・封建制の長所は、この治める者と治められる者との関係が、人格的な性格を帯びている点にあります。その本質は家族制度の国家への適用であります。したがって、いかなる法律や制度も「愛の律法」には及ばないように、もし封建制が完璧な形で現れるなら、理想的な政治形態といえます。

 

 立憲制は悪しき人を取り締まる上では効果を発揮する。善悪の基準や義務を明文化しているので抑止力が働くからだ。だから、徳の無い人が多い社会に向く。つまり、社会の規模が大きい時、或いは、社会が乱れている時、は立憲制であるべきだ。

 封建制は徳を持って行われる。皆が美徳に従って動いていることを前提としている。美徳を持っているが故に、暗黙の了解で秩序が保たれる。だから、善悪の基準や義務は可変的である。そこにおいては信用が担保されている。故に人間関係に奥行きが生まれる。非常に次元の高い制度であるから、社会の規模が小さい時、或いは、社会の構成員が最低限の美徳を持っている時に適用可能だ。

 

3人目は、二宮尊徳。