自分の言葉にしてみること

言葉にしてみたい衝動の行き先

代表的日本人を読んで~中江藤樹編~

先生の模範となる人物がこの中江藤樹である。中江藤樹もまた、二宮尊徳と同じように「大学」を以って、全生涯を決める大志を立てた人物である。特に大学のこの言葉「天子から庶民にいたるまで、人の第一目的とすべきは生活を正すことにある」を知って、それから聖人を目指したという。聖人としての要素として最も大切にしたのが「謙遜」であった。それを象徴するエピソードにこのようなものがある。

 

漢詩と書道を習うため、天梁という学識ある僧侶のもとに送られました。この早熟な少年(13歳)は、先生に対し多くの質問を発しました。なかでも次の質問は、よく藤樹の人物を物語っているものであります。「仏陀は生まれると、一方の手は天を、他方の手は地を指し、天井天下唯我独尊といったとお聞きしました。こんな高慢な人間が天下にいるでしょうか。先生は、そんな人間を、なぜ理想的な人物として仰いでおられるのでしょうか。教えて下さい。」その少年は、後年もけっして仏教を好きになれませんでした。・・・

 

謙遜の美徳に反するなら、当時は人々の生活に根付いていた仏教にすら異を唱える人物、藤樹について、以下の3点について所感を述べる。

 

謙遜

今は、就活をはじめとした各所で「アンチ謙遜」の流れがあるように思う。グローバル化に伴って、世界基準のコミュニケーション術を身につける必要性が謳われている。そのうちの一つが、謙遜するのではなく、逆に自分自身をより良く見せようとするのが良い、というものだ。謙遜が美徳として当たり前となっている文化の中では、謙遜は評価を上げる一つの指針になりうるが、そういう文化の外では、逆に評価を下げることになってしまう。

さらに、謙遜の美徳は「身の程をわきまえる」ことを勧める。これは、昔は共生社会であり、その社会を支える上では身分秩序が必要で、「身の程をわきまえること」はその身分秩序を支えるための一つの礼であったからだ。しかし、今の時代では「身分秩序」の重要性はほぼ謳われなくなり「実力主義」が大事とされている。グローバル化により過度の競争社会に突入し、実力がある人を抜擢しないと生存競争に負けるからだ。そして、他人に負けない実力をつけるために、最近では某企業が「身の程なんか一生知るな」というCMで叫んでいるが、、「ハングリー精神」が大切だと言って、「身の程をわきまえる」道徳は廃れつつある。

このような背景があって、今日では本屋でビジネス書のコーナーに行くと、いかに自分を魅力的に「アピール」できるか、を研究した本をよく目にするようになった。良くも悪くも日本の常識がビジネスと呼ばれる世界では変わりつつあるようだ。

常識は人間同士が、社会という場において、お互いに心地よく過ごすための暗黙のルールである。故に、その社会が変わってしまったのであれば、それに合わせて常識も自ずと(慎重に)変わって良いと考える。従って、これらの流れについては、あまり違和感は抱かない。

ただ、「アピール」はビジネスの場のみにとどめておいて欲しい。好きか嫌いかも一つの理由なのだが、何より「謙遜」は、より自分自身を正確に見つめることができる手段にも、より自分自身を高めることができる手段にもなりうるからだ。どうも人間は、アピール(本来の自分をもっと魅力的に見せる行為)をしていると、そのアピールで表現をしている自分が本来の自分と勘違いをしてしまうようだ。自分のことを正確に分かっていないと効果的な戦略が立てられない。孫子が「敵を知り己を知らば百戦危うべからず」と言っているように、己を正確に知ることは競争社会を勝ち抜く上では必要なことなのだ。さらに、自分のことを正確に知ることで、効果的な自身の成長戦略を立てられる。故に、日常は「謙遜」な態度でいて、自身を見失わないようにし、必要に応じて「化粧をした顔」を見せると良いのだろう。

 

母親崇拝

藤樹の全道徳体系の中心には孝(子としての義務)があった。故に、母の介護をしている時が最も幸福を感じていたという。

孝行は現代においては余計に難しくなったように感じる。何故なら、親から愛のある教育を受けられている人が少なくなったからだ。親から愛情の受け取られなかったら、或いは、愛があったとしても子がそれを感じられなかったら、子は言語的には「育ててもらったから」と恩の存在を認知はするが、「実感」としては恩を「感じない」。これではいけない。恩は「心に因る」と書くように、「心で感じ」無ければ、無いのも同然であるからだ。今は、共働きの人が増えて、子どもの運動会や授業参観に来られない人が増えて、愛を感じられない子どもが増えているのではないかと思う。また、テレビの普及が家族内のコミュニケーションを阻害し始めたことがそれに拍車をかけた。さらに、子どももテレビを見るようになり、孝行する機会も失われた。

そして、親孝行は昔より垣根の高いものになった。ゆえに「そのうちする」という軽い気持ちでは、易きに流れ、気が付いたら親の死後、嘆くことになるだろう。親孝行に壁を感じる人は、意識的に、多少無理矢理でぎこちのないものになってしまうかもしれないが、勇気を出してやった方が良いかもしれない。 

 

「いにしえの聖賢の論著には、現在の社会状態には適応できないことが沢山ある」

藤樹の言葉である。聖賢の論著とは古典を指すのであろう。藤樹は、その当時の社会に適応させるために古典を自分で修正して使っていたという。

自分は、論語老子、小学、大学、孫子は読んだのだが、著書の中で最も伝えたいことは今でも通じ、それを伝えるために所々に出てくる名詞とそこまで大切なことでない教えは時代を感じた。どういうことか。例えば、次の論語一節。

「子の曰わく、關雎(かんしょ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」

意味は、

「『詩経』の關雎(かんしょ)の詩は、楽しくても踏みはずさず、哀しくても哀しさのあまり心を痛めるということはなく、よく調和が取れている。」

というものだ。詩という名詞が時代を感じさせるし、さらに詩についての教えを説いているが、今ではこの教えを大事にする人は、ごく僅かであろう。

所々、上のような時代を感じさせる教えがあり、無駄を感じさせるかもしれないが、個人的には、それを許せるのに十分なほど本質を穿った重要な言葉が古典には集約されていて、読んでみる価値はあると思う。

 

以上。

最後は、日蓮上人。