自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

現実が「真に迫って」きてくれない自分へ

目の前で起きていることが迫ってこない、そんな感覚を持ち始めた人がいるかもしれない。

自分がそうだ。昔は、現実に小心者だった。あまりにも敏感だった。例えば、中学生の頃は、3週間前からテスト前の緊張感を感じていた。「今」のみならず、遠い「未来」が今の自分に迫ってきており、それを自分は確かに積極的に受け止め、自分でしっかり掴んでいたんだ。

 

しかしだ。ある時、色々なことができなくて、自分がとても嫌になった。自分が嫌になって、自分の見る世界に嫌気がさした。自分の世界からとにかく距離を取りたかった。そんな想いが張り詰めた時「プツン」と何かが切れた気がした。気が付いたら、自分の感覚が自分の元には無かった。自分の心と現状が繋がらなくなった。それから、約束や努力を蔑ろにし始めた。言語的にはそれが必要だと解釈できるのだが、その言葉を支えている「感じ」がなくなったのだ。これは、正常な人にはよくわからない感覚だと思う。過去の自分が聞いてもわからないだろう。でも、一応、説明を試みると、例えば「約束」を破れないのは、実害として「人が自分から離れる恐怖」があったり、絶対的な倫理観として「そういうものだ」みたいなものがあったりして、破れないのだと思う。しかし、先の「人が自分から離れる」ことや「そういうもの」というのが、自分の場合は、自分とは遠く離れたことのように感じてくるのだ。だから、別に自分のことではないので、対処する必要がなくなる。こうして、約束や努力の理由は健常人からしてみれば「わかっている」のに、自分だけが「わかっていない」状態が起こるのだ。

 

しかし、時々「感じ」が戻ってくることがある。それは、目的のある期間限定のコミュニティーに自分が所属し、自分がそのコミュニティー間で必要な存在である時だ。この時は、夜遅くまでその目的達成のために頑張る意義を感じることができて、朝まで作業ができる。なぜ、こういう条件の時に限って「感じ」が戻ってくるのだろうか。ここに「感じ」を戻すヒントがある。

 

たぶん、これは「確かな何かに近づいている」からなんだと思う。自分の一つひとつの言動は、確かな何かのためにある。これを無意識にしろ、感じているので、「感じ」が戻ってくるのだ。

 

そう考えると、ストレス過多の時になぜ「感じ」がなくなったのか、がわかってくる。それは「希望」を失ったからだ。「望むもの」それが何かはわかっていないが「望むもの」があったことは確かだ。それを得るために、自分のあらゆる言動が行われていたのだが、ある時、望みと自分はあまりにも遠く離れている、得られないじゃないか!と望みを絶ってしまったのだ。自分が「確か」だとおもっていた「何か」である「望み」が失われ、自分の言動を支える「何か」が損なわれてしまったのだ。

 

こう考えると、恐ろしいことがわかる。誰もが自分のあらゆる言動を支えている「確かな何か」を損なう危険性を持っているということだ。社会に出て力不足を感じた時、年齢を重ね元気が無くなった時、そして、人生の目標を達成した時、、、この「現実が『真に迫って』きてくれない」病は、たぶん、特に現代においては多くの人が経験するだろう。

 

何か、処方箋はないか、これは、人によって色々と異なると思うのだが、自分のような人間には、すごく分かりにくいので3度ほど読み直してほしいが、「建前では「大志」を目的とし「本音」では「手段として『大志』を抱き、目的として、それに真剣に近づこうとする『姿勢』を保つ」これが確かな何かだ!という風に構えた『姿勢』を大事にする」というのが経験上、マシかと思われる。ぶっちゃけ「姿勢」が大事、だけでいいのだが、、、。正確に自分の姿勢について記述してみたかったようだ。確かに、若干の活力は、ただ「志」を追い求める勢と比べたら劣るが、この分かりにくい人生を支える基盤は、長い目で見た時に、色んな迷いを取っ払ってくれる。

 

これは、説明するものではないと思う。境地の話で、意識をしながら生活していくと、徐々にこの分かりにくい基盤の滲み出る素晴らしさがわかってくる。かめばかむほど味が出るやつだ。

 

これは一般化できるかどうかはわからない。何か問いを立て、アンチテーゼを設定し、止揚を繰り返していくと、どうもここに着く気はするが、それをブログに記述する勇気と気力がもうない。

 

よく、なにか失態をした時に、知らず知らずのうちに、昔の自分のせいにする。このブログを機にそれをやめにしたい。