自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

超クズ期を経て自分とは。。

ガチ引きこもりクズ中のクズ生活を始めて半年。

慣れてきた。

就活も終えて、外に強制的に出る手段がなくなった。

思想の異なる会社に入るということで、頭の中の改造を図った。

自由主義進歩主義に異を唱え、歴史のふるいにかけられてもなおよいとされて良習を宗教として力強く生きてみたが、徐々に窮屈を感じ始め、自分の将来を考えた結果、やめようと思った。

好き勝手に生きてみた。

終日ゲーム、すべきことはほとんどすべて放り投げた。

恩を仇で返した。迷惑や心配をかけた。社会的には最底辺の生活をした。

ゲームはよかった。面倒なことから目を背けることができた。

その中では、責任の伴わない人気を得ることができた。

快楽だけの世界。悪くなかった。だが、リアルの事情が頭をよぎった。

それが時折、自分を苦しくした。

結局、リアルの人が正気と呼ばれる世界に自分を連れ戻した。

今は、正気の世界の秩序に則って、自分の意思を働かせようとしている。

しかし、それもまた大変だ。動機が外にあるからだ。

なかなか動けない。そうして、整理のためにブログを書き始めた。

このブログでは、自分を正気の世界に戻すために、自分の心の志向が正気と呼ばれる世界の秩序との整合性が取れていた時期を思い出すことを目的としている。

過去のそのような内的な動機に端を発して、「まっとう」と呼ばれる行動をしていた頃を思い出せば、きっと結論では、「"本当は"自分はこういうまっとうな世界で生きることを望んでいる」という旨になるのだろう。というか、そうなるように文章を綴る。

 

過去を思い出せ。どの時期が最も胸が高まったのか。

それは大学1-3年生の頃。自分が心から好きだった人をパートナーとして一緒に一生懸命、社会活動をしていた。

毎朝、早く起きると、サークルのみんなで建てたTOEIC800以上というゴールを達成するために、最低2時間は英語の学習を行った。

休日には、いろんな新体験があった。洒落た店にいったり、こだわりすぎたBBQをしたり、長期休暇では、一味違う海外遠征をおこなった。ユニークな体験を他人に自慢して誇らしかった。何者かになれていたような気がした。

 

都合の悪いことには無いことにするか異なる事実を捏造するものだ。だから、この時の記憶が良きものかどうかはわからない。でも、どうだろうか。大学4年の頃は同じように思っていたのだろうか。

否。

その時は、こう考えていた記憶がある。

大学1-3年時より今の方が素晴らしい。色恋には縁遠くなったが、それとは引き換えに、人間的に成長した。できることが増え、思いやりのある人になった。社会の構成員としての自覚を強く持つことができるようになった。なにより尊敬している人に近づくことができた、と。

どうして今は、大学1-3年生の記憶が最も輝いてみえるのだろう。

自分の今の理想の姿に近いのが大学1-3年生の頃であったからだ。

 

自分の本当にしたいこと、なりたいこと、それは結局、「経験」というサンプルを組み合わすことでしか創造することができぬ。

自分の本当にしたいこと、なりたいこと、それは結局、「感情」という現在で常に揺れ動く波によって方向性が定められてしまう。

自分の「本当」を問うことがばかばかしく感じてしまうが、残念ながらそういうものだ。

そうだと構えて生活する他ない。

 

うだうだ「それっぽい」ことを恥さらしなドヤ顔でタイプしてしまったが、こんな無駄な文章の中から少し自分の支えになりそうなものが見つけられた気がする。

 

自分はこれまでの人生で始めて「現在よりも過去がよかった」と思っているという事実を発見できた。

これは明らかである。つまり現在の自分が明らかに嫌いな自分なのである。ただ評価基準に変化があった云々の問題ではなく、どう考えてもやはり現在の自分のことは好きではないのである。

 

自分のことが好きになれるように、好きになれる自分になろう。

あぁ、駄文長文失敬失敬。