自分の言葉にしてみること

言葉にしてみたい衝動の行き先

朝の瞑想や書道の必要性

座禅をどうして組むのか、というのにはきちんとはわからない。

ネットによると、自己が真の自己になることができるという。雑念が晴れることで、本来無一物に、何もないところに「真の自己」を発見できるという。

そのことで、心身ともに健康になり、安らぎを得、人間力が溢れ出るという。

 

一度、自分の経験をしたところからいうと、不思議な感覚になるのは確かである。

自と全の境界がなくなるように、無あるいは全を意識することでふわっとし安らぐ。

目に見える物と物の間が曖昧になるような意識が持てているような感じになろうとなれる。

その後、異様にスッキリする。そして、無になった頭の中に多くの考え事が流れ込んでくるのがわかる。それが実感できるので、頭がいつもより働いているかのように感じる。もしかすると本当に働いているのかもしれない。

 

なぜ、習字をするのか、きちんとわからない。

マインドフルネスの効果があるようだ。「ストレス軽減」「集中力アップ」「自律神経回復」といったことが期待されるらしい。

また自分の字を見ることで、自分の心を視覚的に把握できる。自分の心の状態が現れる。そして、これまで歴史を紡いできて、多少なりとも本質的な意味が込められた「字」と、そしてその「字」に込められた思想と向き合うことができる。

いつも、模写する対象は中国古典だ。中国古典は宇宙である。毎日、少しの時間でも古典と向き合うことによって、その世界に近づける。そういう意味で勉強になる。

さらにいうなら、字も丁寧にかけるようにある。字が綺麗な人は信頼される。

 

ただ、それだけでは、落ち着いて座禅が、習字ができない。なぜなら、昔の一寸も「無駄に」したくないという雑念がよぎり、何か考え事をしてしまうからだ。昔から、いざ勉強しようとしても真に集中できないくせに、友達と近未来「遊ぶ」ことが決定したとたんにその遊ぶ時間を設けたことを悔い始める。その時間に猛烈に勉強したいと思い、さらに遊びにいく前にその時間分を埋め合わせるため極度の集中状態で勉強したものだ。

 

「損得」や「生産性」などとそういう資本主義的な考え方から脱却しない限り、そういう今の自分からすれば一見「無意味」に「感じる」ことには没頭できない。上記のように、それぞれの「メリット」を挙げ比べるような視座だと、このようなことのみならず、今後も友人との遊びや恋人とのデートにはその場に没頭できないだろう。

 

自分は「意味」や「無意味に感じること」について、きちんと自分の言葉で解釈をしておかなければならない。

 

人生は「負けない」ために歩むものなのか。確かに「負けない」ことも大切だ。競争社会の中で、何か仮に「負けない」以外の目的を定めることができたとしても、負けてしまえば最悪の場合死ぬ。つまり、娑婆で生きている限り、最低限「負けない」自分である必要がある。しかし、実の所、日本に生きている限り、バイトでなんとか命は繋いでいける。海外に行く勇気もあり、英語も少しは喋れるから、なんとか生きれる自信はある。だから、僕の「負けない」というのは「死なない」ためではなく、ただ「惨めな思い」をしたくないから、「意味」というものを「負けないため」という文脈で考えてしまうのだ。整理すれば、僕の中の世界では「負ける」ことは「惨め」であり、とてもその事実は重要なのだ。

そういう世界観の中で生きてきた以上、そういう風な実感を拭い去る事は簡単にはできないだろう。なぜならそういう風に教育されてきたからだ。勉強、スポーツ、習い事、どれも賞や順位が準備されていて、それが故に「劣」があった。「劣」だとみなされるといじめられやすく「辛い」ことがわかっていた。また、友人も「劣」より「優」の人と付き合っていて、「優」であることがどれほど素晴らしいか体感していた。そういうこともあって、「劣」にならないために、というのは暗に伏せられながらも十分に伝わった形で、「劣」にならないために「成長」というものを輝かしいものとして先輩たちは僕らの前に掲げてきた。「負ける」というのは「劣っている」ということであるから「惨め」なのだ。

しかし、果たして「劣」から抜け出す事が出来た時、僕の世界に見えるのはなんだろうか。いや、問いが少し異なる。「惨めに」感じないことが最も大切なのに、その娑婆の世界の物差しでずっと自分を計られながら「劣」へと転げ落ちてしまう恐怖と常に戦い続けることは良い方策なのだろうか。また同時に安心のできる地位にありつけたとしても、それが本当に「心から」安らぎ納得のできる自分の姿なのだろうか。

仮に安心のできる地位にありつけたとしても、何かしらの病気や事故などの可能性はずっとある。その可能性がある限り、自分の身の回りには「劣」へと転がり落ちることができる崖があり続ける。だから永遠に心から安らぐことはない。自分が欲しいのは心からの「安らぎ」である。どんなに自分が変わっても、周りから愛され続けるような安心できる環境である。だから「劣」という概念そのものがあって欲しくない。そういう世界を心から望んでいる。だから、「惨めに」感じないこと、きちんと言い換えれば「心からの安らぎ」を得るには、どんなに変わっても愛され続ける世界を望む。「劣」だとみなされていた部分が、「クール」か「ホット」のように、ただ方向性が異なるだけで優劣のつけられない価値として位置づけられることである。

そういう考え方になるには多大な不安がつきまとう。自分がずっと執着していた「当たり前」を支えていた基盤、根幹を疑うということだからだ。まずこのことだけでも、一度、秩序なき不安定な状態になって大変だ。すぐに競争概念から逸脱した価値体系に馴染むことができればいいが、そういう価値体系の中で生きたことがない以上、価値体系の移行はとても難しそうに感じる。また、不安定な状態の間、自分は過去の価値体系の中における最も自分の位置したくない所にいきついて悔いることになるかもしれないと大きな不安を感じる。こう考えると、競争概念が基盤となった価値体系の中では、その競争概念を逸脱した新しい価値体系に身を置くということは非常にリスキーなことのように感じる。

だからこそ、慣れさせる必要がある。少しずつ、競争概念を更新した価値体系に慣れるには、まずその価値体系の中で「劣」としていた価値を疑わずに身を置いて、十分に味わってみることは一つの手である。そうすることで、競争概念のない世界の一端を感じることで、その世界に「親しみ」を感じることができるはずだ。「親しみ」を感じることができれば、そうしないことよりも簡単に移行できるかもしれない。座禅や習字などの一見無駄に感じることは、は自分の心から望んでいる世界への移住権を獲得するために必要な手続きである可能性が高い。