自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

人間の学としての倫理学 まとめ

 

 倫理学とは何か、についてまずは考える。倫理という言葉はシナ人が作った言葉であるから、シナ語を考えると倫理という意味がわかってくる。「倫」というシナ語は元来「なかま」を意味する。「理」は「ことわり」であり「すじ道」である。人間の生活に関係するものとしての理は、人間の道である。こういったことから、「倫理」とは「人間共同体の存在の根底に横たわる道義」を意味すると言える。倫理が以上のような意味ならば、この倫理を問う「倫理学」は「人間の共同体の根底に横たわる秩序・道理を明らかにしようとする学問」である。

 では、人間とはなんだろうか。人間は「人」に「間」と書く。日本初の近代的国語辞典「言海」によれば、人間は本来「世の中」「世間」を意味し、「俗に謝って人の意になった」とのことである。誤解が起こるということは、「世の中」は単に「人」と解釈することができたことを実証している。こういったことから、人間とは、全体である「世の中」と部分である「人」の止揚によって統一された言葉であると解釈できる。

 では「世の中」或いは「世間」とは何であろうか。世間という言葉を日本にもたらしたのは漢訳経典である。世間は仏教的な哲学が込められた言葉であり、この哲学の根本命題は「世間無常」である。この世間の概念はシナの仏教学者によって、「世」は「遷流」、平たく言うと、「移り変わるもの」であると解釈されている。しかし、ただ移り変わるものであれば、一つの世であることができないので、和辻は、それに対治することで本質が保たれる必要を主張し、さらに対治によって遷流のないものが現れたのであれば、それはもはや「遷流」を意味する世間でもなくなるので、こういったことから世が破壊性・対治性・覆真性のある言葉であり、また定義をすれば永遠に自己否定が行われるような言葉としている。

 また、世間と訳せられた言語のlokaは本来「遷流」の意味より「場所」の意味を持った語であること、仏教の「世」が「苦」である前提を考えた時、自然現象の時間的な推移は苦ではなく人間関係において苦が生まれること、といったことから、空間的な、場所的な意味が主としてあることがわかる。ここから、世は人間の共同体の意味があるように考えられる。

 次に、「間」及び「中」という言葉も、男女の間、間を隔てる、仲違い等の用法を見るに、人間関係も意味することがわかる。また、人は行為することなしには「間」「仲」をつくることはできず、またなんらかの間・仲においてでなければ人は行為することはできないので、間柄と行為的連関は同義であることがわかる。ここから、この間・仲は、机の間、水の中といったような静的な空間ではなく、生ける動的な間であり、自由な創造をも意味していることがわかる。ここから、「間」「中」は人間の共同体であることが導ける。

 では、世・間・中は現在ではどの言葉にあてがわれているのであろうか。それは「社会」である。実際、日本では「社会」という訳語が用い始められるまでは主に世間・世の中という言葉によって社会を言い表していた。シナにおいては、近思録で郷民為社会等と言われるように、宗教的に結びついた小さい村落共同体が社会と呼ばれた。「社」は元々土の神であり、その祭儀が集団の根底になった。また、この宗教的な意味の他に社会は主として「集団」を意味した。これでは現在使われている社会の時間的・空間的性格には触れていない。しかし、世の中・世間という言葉は、本来の社会の意味を持ちつつ、場所的なもの、絶えず推移するものというものという意味を含んでいる。そして、世の中は行為的な連関として必ず「間」「中」というひろがりを意味するとともに、また同じく行為的な連関であるがゆえに必ず移り変わるものである。従って、人々が社会を世間・世の中として把捉したときには、社会の空間的時間的性格、言い換えると、風土的・歴史的性格をともに把捉していたということができる。

 以上から世間・世の中という言葉の意味は、人間存在の歴史的・風土的・社会的性格を捉えたものとして十分尊重に価することがわかる。世間・世の中とは、遷流性及び場所性を性格とする人の社会であり、歴史的・風土的・社会的な人間存在である。

 人間の概念を世の中自身であるとともにまた世の中における人であると規定し、この人間の側面を「人間の世間性」と表現し、他の側面を「人間の個人性」と呼ぶことした場合、人間存在とはこの両性格の統一であると言える。これは行為的連関として共同体でありつつ、しかもその行為的連関が個人の行為として行われる。これが、人間存在の構造であり、従ってこの存在の根底には行為的連関の動的統一が存在する。これこそが、倫理の概念において明らかにされた秩序・道である。

 では、倫理は「存在」(Sein)の根底であって「当為」(Sollen)ではないのだろうか。そもそも「存在」とは何であろうか。存在という言葉が現在Seinの同義語として用いられているが、Seinは主辞と賓辞とを結ぶ繋辞であり、実際のところ同義語ではない。S ist Pを「SはPである/なり」と言い現わしているが、SとPを結びつけているのは「である」「なり」等であって「存在」ではない。繋辞としての意味をも含むSeinの訳語としては、「である」「なり」などの根幹である「あり」を選ぶべきであったと和辻は考える。「あり」は繋辞的用法においては「である」「なり」等になり、事実のexistentiaを現わす場合は「がある」「あり」の形をとる。従って、繋辞的Seinを問題とすることは「である」を問題とすることであり、思惟に対立するSeinを問題とすることは「がある」を問題とすることである。論理学は「である」を取り扱い、オントロギーは「がある」を取り扱い、両者は根源的な「あり」にもとづいている。したがって、この根源的な「あり」を取り扱う基礎的オントロギーがなくてはいけない。

 ところで、我々が「がある」に当てている漢語は「有」である。元来シナ語は繋辞のSeinに当たる言葉を持っていない。ここから、オントロギーは有論であると規定する。有について考えると、有には「がある」と同じ強さで「もつこと」を意味することがわかる。ハイデッガーアリストテレスは所有物を現わす語ousiaを保持しており、これには「有る所のもの」という意味もある。ここから有る所のものとは手の前にあって使えるもの、つまりousiaは身近に持ち来たすというような関わりを指し示し、アリストテレスはこの解釈によってousiaやその訳語のessentiaを交渉的存在の中へ連れ込む。また、あらゆる有つは人間によってであることから、有の根底には必ず人間が見出される。したがって、人間があるのは人間が人間自身を有つからだということがわかる。ここから、人間が己自身を有つことを言い現わす言葉が「存在」だということがわかる。

 「存」という言葉は、「存じております」というごとく、あることを心に保持する意に用いられている。漢詩の存の使い方を幾つか見れば、どうも「存」は単なる「がある」ではなく、自覚的に主体的に有つことであることがわかる。こうみると「存」には己自身の保持の意味があることが一層明白にわかる。これは忘失に対して把持を意味し、亡失に対して生存を意味する。すなわち主体の作用・行為であって、客体があることではない。しかし、主体は己れ自身の把持において対象的なる者を把持するのである。また時間的性格を帯びている。例えば、危急存亡の秋、存命、生存、といった語には時間的意味が含まれている。

 「在」という言葉は古来「にあり」として特徴づけられている。すなわち、ある場所にあることを意味する。この語も主体性を帯びた語である。例えば、主体性のない石を例にあげると、「山にある石」を、「山にいる石」といったように言うことができないことから、主体的場所的な意味を示していることがわかる。また、空間的な場所のみならず社会的な場所も意味している。例えば、在宅、在郷、在世といった語があることから、社会的な場所も意味することがわかる。主体的に行動する者はなんらかの人間関係においてあることを示唆し、ここから、自由に去来するとは、このような人間関係の中を自由に去来すること、すなわち実践的交渉を意味することがわかる。この実践的な関わりがなければ誰しも社会的な場所にいることはできない。このようにみれば、在とは人々がそれぞれの社会的な場所に去来しつつあることであり、従って「人間」が己れ自身を有つことである。

 したがって「存」はその根源的な意味においては主体の自己把持であり、「在」は根源的にその主体が実践的交渉においてあることを意味するとすれば、「存在」が間柄としての主体の自己把持、すなわち人間が己れ自身を有つことの意味であることは明らかになる。存が自覚的に有つことであり、在が社会的な場所であることを結合すれば、存在とは「自覚的に世の中にあること」に他ならない。しかし、その世の中にあることがただ実践的交渉においてのみ可能である点を強調すれば、存在とは「人間の行為的連関」であるとも言わなくてはならなくなる。これが、我々の存在の概念である。

 以上から、倫理学は人間存在の学であらねばならないことがわかる。こうした時、この人間存在が当為に対するSeinではないことが明らかになる。人間存在は人間の行為的連関であるがゆえに自然必然性において可能な客体のSeinではない。しかし、またそれは人間の行為的連関として、単に主観的な当為の意識というものでもない。人間の世間性と個人性とは人間の行為を共同的であるとともに個人的であらしめる。個人の行為が単に個人的主観的であるのみならず超個人的な根底を持つことを意味するとともに、また共同体の行為が単に超個人的であるのみならず必ず個人の行為として表現されることを意味する。ゆえに、我々はSeinとSollenのいずれも人間存在から導き出せるものとして取り扱えると考える。人間存在は両者の実践的な根源である。だから人間存在の根本的な解明は、一面において客体的なSeinがいかに成立したかの問題に答える地盤を、他面においてSollenの意識がいかにして成立するかに答える地盤を提供する。前者は「有の系譜」をたどることによって答えられ、後者は人間存在の構造がいかに自覚されるかをたどることによって答えられる。人間存在の学はこの二つの方向に対していずれも十分な地盤を与えなければならない。

 したがって、人間存在の学は人間存在を全て観念的なものの地盤とともにまた自然的な有の地盤としても把捉しなければならない。このような存在において人間は、個として現れつつ全体を実現する。個であることを通じて全となるという運動においてまさに存在なのであるから、この運動の生起する地盤は絶対空である。すなわち絶対的否定である。絶対的否定が己を否定して個となり、さらに個を否定して全体に還るという運動そのものが、人間の主体的な存在である。全ての人間の共同体を可能にしているのはこの運動であり、またそれは、一般に間柄をつくるためのふるまい方として、行為的連関そのものを貫いている。ゆえに、人間存在のなかにはすでに倫理があり、人間共同体の中にはすでに倫理が実現されている。だからこそ、「倫理」の学は同時に「人間存在」の学ではなくてはならない。また、この人間の学は、一面においては人間の自覚でもある。人間が存在的に実現するものをここでは反省意識において反復する。従って倫理学は人間の自覚の体系化であると言える。