自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

本とブログについてディベート形式で比較してみて、その活用方法を探る。

最近は、どうも情報収集源がブログに偏りがちだ。自分の欲しい情報が容易に手に入るため、易きに流れてしまい、本に手が伸びにくい。おそらく本に手が伸びないのは、ブログと比べた時の本の重要性をきちんと言語化できてないからだ。そこで、今回は、本とブログを取り上げて、情報収集の有用性はどっちが高いのか、本とブログは多種多様であるので無理があるのは重々承知だが、なるべく普遍的な特徴を捉えて一人簡易ディベートを展開してみる。

 

情報収集に利用するのは本の方が良い。是か非か。

 

肯定側

情報収集に利用するのは本の方が良い。まず、言葉の定義をする。ここでいう情報収集とは、リベラルアーツのための情報収集に限る。リベラルアーツの意味を以下のWEBサイトが載せているものに限る。

www.obirin.ac.jp

内容としては

複雑化した現代社会では、ある特定分野の専門的な知識が求められる一方で、幅広い知識を身につけ、異なる考え方やアプローチ方法が理解できるような総合力が必要とされています。リベラルアーツはさまざまな学問領域を自由にそして積極的に学ぶことで、実社会で活躍し豊かな人生を送ることができる総合力のある人間の育成を目標としています。

というものだ。

これをまとめて、今回は、

「さまざまな学問領域を自由かつ積極的に学ぶ方法によって、異なる考え方やアプローチ方法が理解できるという意味での総合力が身につき、そのおかげで、実社会で活躍し、最終的には豊かな人生を送ることができる人間の育成を行う情報収集の仕方」についてディベートを展開する。

 

本のメリットは3つある。

1情報の質の高さ

2体系的な情報の理解

3視野の拡大

 

それぞれ説明する。

 

1 情報の質の高さ

以下のサイトから

ブログ記事作成と本(出版)執筆の違いは?編集者さんからも認められる文章とは? | 100倍BLOG

情報の質についての述べる。

ブログから編集者の存在により以下の2点の質が高まると言える。

 

1.1分かりやすさ (「てにおは」「主語述語」「接続詞」を正しく使う)

1.2面白さ

さらに

1.3正しさ

 

を付け加えてもいいだろう。

 

1.1分かりやすさ

正確な日本語が使われているので、読み手は正確に文意を理解することができる。また間違った日本語を学ぶことが少ない。

1.2面白さ

面白さは情報収集の気概を生む。その気概が大きければ大きいほど、その情報は頭に残る。

1.3正しさ

ブログは間違った事実を用いても第三者からの校正がされにくいため、修正されない可能性が高い。さらに、ブログは公表した後に修正ができるため、間違いのない記事を書くという責任はあまり問われないが、本ではそうはいかない。これが、正しい事実を書くことを推し進める。

 

 

2 体系的な理解

本の目次を見ればよくそれがわかる。本は多くの情報を載せることが許されるので、より広く(3で詳細を記述)、より2.1「深く」掘り下げて本のタイトルについての解釈を施しており、さらに、それを分かりやすくするために、情報を 2.2「整理」して記述している。広さと2.1 2.2 の要素はブログより上だ。体系的に物事を理解するためには、2.1 2.2 の要素は必須だ。体系的な理解は情報の実用性を高める。実社会で活躍するためには、知識は実用性のあるものでなければならない。

 

3視野の拡大

本には主題とは関係ない情報が書かれていることが多い。そのため視野の拡大を推し進める。

 

これから「視野」「視点」「視座」と三つの言葉を使い分けるので、ここで定義をしておく。

 

「視野」:どの分野を見るか。関心領域のことを指す。

ex 教育 文学 音楽 政治

「視点」:どの点から見るか。関心領域についてどの視点から考察するかを指す。

ex タバコについての見解だと、
心理学的視点「ストレスの発散になる」
社会科学的視点「タバコは非行の始まり」
実践知的視点「お金の無駄遣い」
経済学的視点「国へ経済的な支援のため」
環境保全学視点「ゴミ」

といった感じ。

「視座」:どの高さから見るか。

ex タバコについての見解だと、

タバコを吸ってる人「タバコを吸うのは心地よい」

JT「タバコを売ることで多くの従業員の雇用を生んでいる」

国「たばこ税に感謝」

WHO「年間600万人がタバコによって殺されてる」

といった感じ。

 

以上

 

幅広い分野の知識を得ることを意識的に行うのは困難だ。なぜなら、人は興味が湧くのでその分野の情報を収集するからだ。その興味というのは限定される。ゆえに、どうしても偏る。したがって、自分の興味の如何に関わらず様々な分野の情報が入ってくる環境に身を置くことが必須になる。本はその環境に適している。

 

否定側

言葉の定義は肯定派に従う。

本とブログの定義を付け加える。本を紙媒体であり、売上を重視したものであり、著者一人の考え方が主に記載されているものとする。ブログは、広告収入を意識していないものであるとする。

 

本の短所として以下の3点が挙げられる。

1.手軽でない

2.視点・視座の限定の可能性

 

 

①.手軽でない

実社会で活躍するということは、忙しいということ。忙しいと満遍なく情報収集ができかねる。実社会で活躍する読者は、最低限必要なレベル(深さ・視点・視座)で情報収集することが求められる。その最低限必要なレベルというのは定めるのは困難だ。このレベルを定めるためには、二段階の情報の収集の仕方をする。まず、その分野の概要を把握する。次に、その情報の一部について深く掘り下げて調べたり、異なる分野についての情報を得る必要性が生まれてそれを調べたりする。概要を把握した後、もっと深く或はもっと広く収集しなくてはならない情報があることを知るからだ。

これらの作業の際、本を使っての情報収集であれば多くの無駄が生まれる。まず、概要を把握するのに、本に書かれているほどの情報量は必要ないことがほとんどであること。次に、本来必要性の生まれるはずのなかった情報についても入手してしまう。費用対効果の小さい情報収集を行ってしまう。時間を無駄使いしてしまう。そうして、本来、実社会で活躍するためにもっと有意義に使えたはずの時間が失われる。

 

②.視点・視座の限定の可能性

本は、主に1人の著者の視点・視座によって書かれたものである。ゆえに大量の情報の割には、視点・視座の数は少ない。ある分野においての情報収集の時間は限られている。ゆえに、ある分野について把握すべき視点・視座少なくなる可能性が高まる。

 

ブログでの情報収集であれば、これらのデメリットはなく、さらに3点のメリットがある。

 

1.手軽

短い時間に必要な情報を必要な分だけ入手することができる。ゆえに実社会で活躍する忙しい人に向いている。

 

2.視点・視座の網羅

ブログで情報収集を行うと、一つのブログに割く時間は短時間で済むので、様々な人の視点・視座での情報収集が可能になる。

 

3.自由度の高さ

本であれば売上を重視しなければならない。そのため「売れること」しか書けないという制約がかかる。ブログであれば、どんなテーマについての記述可能である。例えば、今取り扱っている「本とブログの違い」というテーマについての解釈は情報収集する者にとってそれなりに重要であろうが、これはページ数が少なくなって本としての体裁が成り立たないため出版不可能である。自由度が高いことで、本では見つけることが難しい「重要だけど商売にならない」情報を早く見つけることができる。

 

第一反駁 肯定側→否定側

 

Attack to 

①.手軽でない

ブログで情報収集すると、よく内容がダブっているものを見る。そのダブりの要素を読むのは時間の無駄になる。本であれば、ダブりは少ない。そのダブっている箇所を読む無駄な時間と読者の必要としていない内容を読む時間はさほど変わらないのではないか。もっと言うと、ダブっている内容を読むことと、読者は必要としていないが、知らない情報を入手することは、どちらの方が価値のあることであろうか。さらに、そもそも、ここで読者は、読者にとっての概要が最初から認識できている前提に立っているが、概要は縦横無尽な情報収集があって全体像が見えてからやっとはじめて認識できるものであり、おかしい。故に、読者は最初から概要の把握はできないので、否定派が提案した情報収集の仕方は一段階目で破綻する。さらに、仮に概要を把握できたとしても、情報の必要性はどれほど分かるのであろうか。否定側の理屈は机上の空論、否、ただの空論である。

 

Attack to 

1.手軽

必要な情報のみを入手する必要性は仕事の上では重要だが、リベラルアーツ的な学びを行う上ではそこまで重要でない。なぜなら、必要性は自分が決めることであり、その意思決定には関心があるかどうかという基準が欠かすことができないため、関心に基づいて必要性が決定される点でどうしても偏りが生じるからである。偏りは幅広い知識を身につける上で弊害となる。

Attack to 

3.自由度の高さ

自由度の高さはさほど重要でない。売り上げに繋がらない情報は、得てしてニーズの小さいものである。ニーズの小さいものは、実用性に乏しいということだ。実用性乏しければ、実社会で活躍するためには不必要なものである。寧ろ、収益性を考えて自由度を小さくし、情報をふるいにかけて、実社会で活躍するのに役立つ情報を集める方が重要だ。この点で、本の方が勝る。

 

第一反駁 否定側→肯定側

Attack to 

1.1分かりやすさ

ブログは情報量が少ない。少ないがゆえに、疑問が生まれ、自身で検索をかけて、積極的な学びが行われる。そうして、行われた積極的な学びで得た知識は有機的な繋がりを持つ。なぜなら、疑問を生んだブログと疑問を解決したブログとの間には、自身の思考が存在しているからだ。こうして自分で考えながら情報収集を行うので、ものごとがよく分かる。確かに文の分かりやすさでは劣るかもしれないが、このようなもっと深い次元での「分かる」においては負けていないかも。(本当は、反駁で新たに意見を言ってはいけなんだけど、、真理に近づくためのディベートなのでご愛嬌)

Attack to 

1.3正しさ

時間が変われば変わる事実がある。時間が経てば重要でなくなる事実がある。紙媒体の本だと修正が効かない。ブログだと修正が効く。さらに、ブログでは、他者からのコメントをもらえるので、第三者による校閲も可能なことがある。人気なブログであれば、もし間違った事実を書いても、誰かがコメントをしてくれて、修正の機会をもらえるだろう。

 

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代表的日本人を読んで 〜日蓮上人編〜

日本を代表とする僧侶、日蓮上人。法華経を弘めた人物である。法華経の概要を紹介するために、

あなたも菩薩になろう!―イキイキ生きる6つの方法|法華経の教え|仏教の教え|日蓮宗ポータルサイト

のサイトを一部抜粋する。これは六波羅蜜と言って、仏になるために行う6つの修行である。

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この6つを極めたのが日蓮上人だ。彼の特徴について3点記述する。

 

勇敢

日蓮上人は日蓮宗以外の宗教を、地主を、幕府を敵に回した。彼らは、日蓮上人の布教活動を、流刑や死刑を持ってやめさせようとした。そして、日蓮上人は幾度も命が危険にさらされる。それでもなお、彼は命の危険をかえりみず、当時、価値が低くみられて他の宗派と比べて盛んでなかった日蓮宗を布教しようとした。結果、現在では約400万の信者がいる。これは、日蓮上人のおかげであるといって間違いない。

 

西郷もそうであったが、これは命よりも大義を大切にしている姿勢ゆえにできることだ。これは、日本における昔の偉人の共通項である。勇敢であることは、多少の危険もある。勇敢であるためには、揺るがない信念が必要だ。その信念が間違っていた場合、逆に世の中にとって大悪党になってしまう。ヒトラーが良い例だ。ゆえに、勇敢になる前に慎重になるべきだ。自身の信念が正しいのか幾度も検証をして、意を決して行動する。行動し始めたら、ぶれずに突き進むべきだ。書経でも「疑謀は成すなかれ」という言葉でこのことを述べている。これは「自分がこれから行うつもりのことに少しでも疑いがあれば、止めるべきだ。疑念や不安は心の毒薬のように自信を揺るがし断行力を削ぐ。確信をもって行動すためには、核心に触れるまで努力しなければならない。」という意味である。

 

 粘り強さ

幕府はあの手この手で布教活動を辞めさせようとするが、最後には断念し、日蓮上人に自由に布教活動を行なって良い権利を与えることになる。日蓮上人の粘り勝ちである。

 

粘り強くあるためには、確固たる信念が必要だ。その信念がある粘りは人を動かす大きな力を有する。ガンジーキング牧師も長い間粘った。その結果、相手を動かすことができた。相手は、理に動かされたわけではない。彼らの情に折れたのである。その情、つまり熱量を最も表現できる手段が粘りである。予想をはるかに上回る粘りを見せることで、相手が途方も無い戦いを想起し、精神的に疲弊し、折れる。相手にとってどんなに理不尽なことでもひっくり返すことができる荒技、裏技が「粘り」なのだ。革命家にとって「粘り」は必須の要素である。

 

宗教

自分は日本の宗教観は嫌いではない。以前TEDで紹介されていた日本の宗教観についての解釈を引用する。

「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは - ログミー

 

当該webサイトでは、他国が「believe in something」なのに対し、日本は「respect for something or respect for others」であると紹介している。ゆえに、日本は他宗教に対し、寛容なのであるという。これくらいの感覚なら、もしかしたら寧ろ宗教観は持っていた方が、マスの人格の形成の為に良いかもしれない。宗教は、悪いイメージを持たれがちだが、結構、真っ当なことを書いているように思える。例えば、先に紹介した日蓮宗の修行内容についてだが、当たり前とされている大事なことを述べている箇所が幾つも見受けられる。①の布施の「世のため人のためにつくしなさい。」とか。②の持戒も見てみよう。「むやみに生き物を殺さない」「盗みを働かない」「道に外れた邪なことはしない」「うそをつかない」「酒によって自分を見失わない」、、、大事なことばかり書かれている。宗教は人間をコントロールする力を持っている。その力を善く使うことができたら、宗教は善いものでありそうだ。さらに、この本が紹介している宗教の有用性についてここに紹介する。

私どもは、自分の能力をはるかにこえる願いごとをもち、世の与えうるよりも、はるかに多くのものを望むという、妙な存在なのです。この矛盾を取り除くためには、行動はともかく、少なくとも思想の面でなにかをしなければなりません。

宗教は得てして欲を抑えるものだ。人は欲が原因で争いを起こす。つまり、本来、宗教は争いを防ぐためにあるものだ。

 

これにて、代表的日本人の感想文を終える。

 

 

 

代表的日本人を読んで~中江藤樹編~

先生の模範となる人物がこの中江藤樹である。中江藤樹もまた、二宮尊徳と同じように「大学」を以って、全生涯を決める大志を立てた人物である。特に大学のこの言葉「天子から庶民にいたるまで、人の第一目的とすべきは生活を正すことにある」を知って、それから聖人を目指したという。聖人としての要素として最も大切にしたのが「謙遜」であった。それを象徴するエピソードにこのようなものがある。

 

漢詩と書道を習うため、天梁という学識ある僧侶のもとに送られました。この早熟な少年(13歳)は、先生に対し多くの質問を発しました。なかでも次の質問は、よく藤樹の人物を物語っているものであります。「仏陀は生まれると、一方の手は天を、他方の手は地を指し、天井天下唯我独尊といったとお聞きしました。こんな高慢な人間が天下にいるでしょうか。先生は、そんな人間を、なぜ理想的な人物として仰いでおられるのでしょうか。教えて下さい。」その少年は、後年もけっして仏教を好きになれませんでした。・・・

 

謙遜の美徳に反するなら、当時は人々の生活に根付いていた仏教にすら異を唱える人物、藤樹について、以下の3点について所感を述べる。

 

謙遜

今は、就活をはじめとした各所で「アンチ謙遜」の流れがあるように思う。グローバル化に伴って、世界基準のコミュニケーション術を身につける必要性が謳われている。そのうちの一つが、謙遜するのではなく、逆に自分自身をより良く見せようとするのが良い、というものだ。謙遜が美徳として当たり前となっている文化の中では、謙遜は評価を上げる一つの指針になりうるが、そういう文化の外では、逆に評価を下げることになってしまう。

さらに、謙遜の美徳は「身の程をわきまえる」ことを勧める。これは、昔は共生社会であり、その社会を支える上では身分秩序が必要で、「身の程をわきまえること」はその身分秩序を支えるための一つの礼であったからだ。しかし、今の時代では「身分秩序」の重要性はほぼ謳われなくなり「実力主義」が大事とされている。グローバル化により過度の競争社会に突入し、実力がある人を抜擢しないと生存競争に負けるからだ。そして、他人に負けない実力をつけるために、最近では某企業が「身の程なんか一生知るな」というCMで叫んでいるが、、「ハングリー精神」が大切だと言って、「身の程をわきまえる」道徳は廃れつつある。

このような背景があって、今日では本屋でビジネス書のコーナーに行くと、いかに自分を魅力的に「アピール」できるか、を研究した本をよく目にするようになった。良くも悪くも日本の常識がビジネスと呼ばれる世界では変わりつつあるようだ。

常識は人間同士が、社会という場において、お互いに心地よく過ごすための暗黙のルールである。故に、その社会が変わってしまったのであれば、それに合わせて常識も自ずと(慎重に)変わって良いと考える。従って、これらの流れについては、あまり違和感は抱かない。

ただ、「アピール」はビジネスの場のみにとどめておいて欲しい。好きか嫌いかも一つの理由なのだが、何より「謙遜」は、より自分自身を正確に見つめることができる手段にも、より自分自身を高めることができる手段にもなりうるからだ。どうも人間は、アピール(本来の自分をもっと魅力的に見せる行為)をしていると、そのアピールで表現をしている自分が本来の自分と勘違いをしてしまうようだ。自分のことを正確に分かっていないと効果的な戦略が立てられない。孫子が「敵を知り己を知らば百戦危うべからず」と言っているように、己を正確に知ることは競争社会を勝ち抜く上では必要なことなのだ。さらに、自分のことを正確に知ることで、効果的な自身の成長戦略を立てられる。故に、日常は「謙遜」な態度でいて、自身を見失わないようにし、必要に応じて「化粧をした顔」を見せると良いのだろう。

 

母親崇拝

藤樹の全道徳体系の中心には孝(子としての義務)があった。故に、母の介護をしている時が最も幸福を感じていたという。

孝行は現代においては余計に難しくなったように感じる。何故なら、親から愛のある教育を受けられている人が少なくなったからだ。親から愛情の受け取られなかったら、或いは、愛があったとしても子がそれを感じられなかったら、子は言語的には「育ててもらったから」と恩の存在を認知はするが、「実感」としては恩を「感じない」。これではいけない。恩は「心に因る」と書くように、「心で感じ」無ければ、無いのも同然であるからだ。今は、共働きの人が増えて、子どもの運動会や授業参観に来られない人が増えて、愛を感じられない子どもが増えているのではないかと思う。また、テレビの普及が家族内のコミュニケーションを阻害し始めたことがそれに拍車をかけた。さらに、子どももテレビを見るようになり、孝行する機会も失われた。

そして、親孝行は昔より垣根の高いものになった。ゆえに「そのうちする」という軽い気持ちでは、易きに流れ、気が付いたら親の死後、嘆くことになるだろう。親孝行に壁を感じる人は、意識的に、多少無理矢理でぎこちのないものになってしまうかもしれないが、勇気を出してやった方が良いかもしれない。 

 

「いにしえの聖賢の論著には、現在の社会状態には適応できないことが沢山ある」

藤樹の言葉である。聖賢の論著とは古典を指すのであろう。藤樹は、その当時の社会に適応させるために古典を自分で修正して使っていたという。

自分は、論語老子、小学、大学、孫子は読んだのだが、著書の中で最も伝えたいことは今でも通じ、それを伝えるために所々に出てくる名詞とそこまで大切なことでない教えは時代を感じた。どういうことか。例えば、次の論語一節。

「子の曰わく、關雎(かんしょ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」

意味は、

「『詩経』の關雎(かんしょ)の詩は、楽しくても踏みはずさず、哀しくても哀しさのあまり心を痛めるということはなく、よく調和が取れている。」

というものだ。詩という名詞が時代を感じさせるし、さらに詩についての教えを説いているが、今ではこの教えを大事にする人は、ごく僅かであろう。

所々、上のような時代を感じさせる教えがあり、無駄を感じさせるかもしれないが、個人的には、それを許せるのに十分なほど本質を穿った重要な言葉が古典には集約されていて、読んでみる価値はあると思う。

 

以上。

最後は、日蓮上人。

代表的日本人を読んで~二宮尊徳編~

「徳を尊ぶ人」で二宮尊徳と呼ばれる二宮金次郎。彼は農民聖者として知られている。よく小学校に建てられている、まきを担いで本を読んでいる少年の石像は誰もが一度は目にしたことがあるはずだ。彼の思想は、その彼の読んでいる古典「大学」に由来するのだろう。

 

大学は、中国古典の四書五経の一つである。大学の中に収められている最も有名なフレーズは「修身斉家治国平天下」だ。これは、政治のあり方について述べられている言葉である。意味は「天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。」である。四字熟語ではこれを略して「修己治人」とされている。二宮尊徳はこの教えの模範となる人物である。

 

少年時代、尊徳は、十六の時に親をなくした。それから伯父の世話になる。出来るだけお世話になるまいと、真夜中まで仕事をしていた。全仕事を終えた後に、字の読めない人間にはなりたくないという思いで「大学」を勉強していたという。ある時、夜中に勉強している様子が伯父に見つかった。勉強の為に灯油を使っていることを怒られる。その後、川岸のわずかな空き地を開墾して、アブラナの種を蒔き、休日をあげて栽培にいそしむ。そうして、1年後、油を手に入れ勉強を再開した。

 

このように尊徳は早くから独立をはかった。何事も自力で物事を克服する人物になる。この考えを政治にも生かした。例えば、ある荒廃した地域を興す際、敢えてその地域に与えられていた金銭的援助を断ち切り、道徳教育を施し、忍耐強く自力で仕事に従事させるようにし、その地域を見事に復興させた。

 

こういうやり方で、日本の各所の経済的・精神的復興を成し遂げることに成功する。

そんな彼について、3点所感を述べる。

 

自力を大事にする

上に述べたように彼は自力を大切にしていた。自力を大切にするということは、その力を及ぼした対象を経験を以って理解し、自分のものにできるということである。自分のものにできるということは、自分のできることが増えるということである。現在、日本では「ラベル」の価値が下がり、相対的に「できること」がより重視されるようになってきている。だから、依存せず独立して自力で何かを成し遂げる経験がより大切になってきた。今を生き抜く生存戦略として昔も今も「自力」は大事なキーワードであるようだ。

「依存」にはリスクが伴う。そのリスクとは、自分の運命の手綱を他人が握るということだ。そして、その依存している相手の都合の悪いことはできなくなる。結果、自由が失われる。また、その依存している相手との関係が何らかの理由で破綻する、例えば、相手がいなくなったり、相手が取引先を変えたりすることで、自身の存在も危うくなる。依存は目先のことを考えると、すぐに力が手に入って楽ではあるが、長い目で見るとその代償は小さくない。

 

「万物には自然の道がある」

これは、尊徳の実際の発言である。尊徳は、農業を行う際、自然の道理には逆らわないようにしていた。道理を知り、それに沿うことで、上手くいくと考えていた。これは、今ではあまり親しみのない考え方である。今日では、科学技術と学問が発展し、人は巨大な力を手にし、多くのことが可能になった。そして、自然を見くびるようになった。気が付いたら、自然は地球温暖化という名の刃を人類に向けている。多くのメディアはそれが人類の滅亡を導くのではないかと報道している。もう少し温暖化の影響が顕著に表れ出したら、例えば南極の氷が全て溶けた時に、人類は自然との共存の道を選ぶようになるだろう。その時には、他にも砂漠化や食糧難等の悪影響が全世界を襲っているだろう。その時に後悔して取り返そうとしても遅い。自然は不可逆的であるからだ。故に、自然とは慎重に付き合わなければならない。

少々、話がずれた。万物にある、それらの物の根底に最初から流れている道理、という意味での「自然の道」について述べる。自然を訓読みすると「自ずから然る」となる。ここから察するに、本来その物に最も大きく働いている力学の方向とも言える。例えば、川の流れであれば、高い所から低い所に流れるのが自然の道理であろう。だとすると、ダムは自然の道理に逆らっていると言える。美女がモテることも自然の道理だ。ならば、化粧をしてその場しのぎで「かわいいをつくる」ことは自然の道理に反している。自然の法則に逆らうことは物凄い力を要する。ダムを建設するためには25年から50年程かかる。Vaseline(米国のスキンケアブランド)の調査によると女性の生涯に渡って、化粧品に費やすお金は3060万円もする。自然の法則に逆らうことはとても大変なことで相応の理由がない限りしない方がよさそうだ。だとすると、少子高齢化都市化地球温暖化、戦争、いじめ等々の長年問題視され続けている大きな力学が働いている問題はどう考えれば良いのだろうか。解決は諦めて「緩和」を目指すか、或いはそれらの力学にうまく「適応」するのか、両方か、、、自然の力を見計らって、自分のそれらの問題と向き合う姿勢を考えたい。

 

信念のテスト

 引用する。

わが先生は近づきやすい人ではありませんでした。はじめて会う人にはその身分に関わりなく、例の東洋流の弁明「仕事が忙しくて」を言われ、決まって門前払医にあいました。それに根負けしない人だけが、話を聞いてもらうことができました。来訪者の忍耐がきれると、いつも「私が助ける時期には、まだいたっていないようだ」とわが先生は語られました。

 これは、忍耐が大切というのではなく、もっと根本的な「信念」が大切であるということを言っている。信念があれば自ずと、それこそ「自然に」忍耐はついてくる。信念は明確な問題意識があって生まれる。明確な問題意識は、明瞭な言語活動によって生まれる。故に、身の廻りのことについて言語的解釈を施す習慣が必要だ。

 

次は、中江藤樹

代表的日本人を呼んで〜上杉鷹山編〜

「あらゆる人々のなかで、鷹山ほど、欠点も弱点も数え上げることの難しい人物はありません」と内村鑑三は紹介する人物、上杉鷹山。仁政によって藩の復興を成し遂げた大名である。鷹山の根本に流れる思想はどのようなものだったのか。彼は藩主になる日、次の誓文を、一生の守護神である春日明神に送っている。

1.文武の修練は定めにしてしたがい怠りなく励むこと

2.民の父母となるを第一のつとめとすること

3.次の言葉を日夜忘れぬこと

贅沢なければ危険なし

施して浪費するなかれ

4.言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼、を犯さぬようつとめること。これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときいには、ただちに神罰を下し、家運を永世にわたり消失されんことを。

 彼は上記の誓いを生涯守っていくことになる。そして数々の偉業を成し遂げた。今回は以下の3つの彼の特徴について所感を述べる。

 

・非常に質素な生活

 鷹山はかなりの倹約家だったと聞く。生涯を通して、木綿と粗末な食事を取り続けた。古い畳は、修理がきかなくなるまで取り替えることはせず、敗れた畳に自分で紙をあてがっていたという。

贅沢の本質は自由の獲得である。一方で、倹約の本質は無欲の美しさである。鷹山はなぜ倹約家として生きたのか。それは、ただ彼の「贅沢はいけない」という倫理観にしたがって、倹約に努めていたように思える。注意したいのは貧困と倹約は異なるということだ。貧困は生きるために欲を抑えなければならないが、倹約は自分の自由意志に基づいて欲を抑えることにある。倹約は金銭的に余裕がある状態にあるので、もしものことがあっても対応できたり、徳業の幅が広がったりする。倹約の方が尊い。

 

・経済と道徳を分け隔てない考え方

著書を引用する。

東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは常に富は徳の結果であり、両者は木の実と相互の関係と同じであるとみます。・・・・・「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない。」・・・・鷹山の産業改革の全体を通じて、とくにすぐれている点は、産業革命の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたのです。快楽主義的な幸福感は、鷹山の考えに反していました。富をえるのは、それによって皆「礼節を知る人」になるためでした。「衣食足りて礼節を知る」といにしえの賢者も言っているからであります。当時の慣習には全然こだわらず、鷹山は自己に天から託された民を、大名も農夫も共に従わなければならない「人の道」に導こうと志しました。

 

昔は足りていないもの・必要なものが明らかだった。物も情報も少なかったので簡単にそれらを見つけることができた。だから、徳の実践も簡単だった。しかし、今はどうだろうか。日本はお金さえあれば、何不自由なく暮らすことができる。必要や不足は目の前に「ある」というより考えて「生み出す」という感覚が近くなったような気がする。情報を集めて考えないと生み出せないから、ヒト・モノ・コトの必要や不足を認知できている人は少ないような気がする。さらに、言語情報としてその必要や不足を認知しても、それらを体験として”実感”することはほぼ無い。したがって、徳の実践は難しくなったのではないか。さらに徳を実践して富を得るのも難しくなっているように感じる。消費者のニーズを聞いてから商売をする、というビジネススタイルが少ない。スティーブジョブズの名言だが、「消費者に、何が欲しいかを聞いて、そしてそれを与えようとしてはいけない。それが完成するときには、彼らは何か新しいものを欲しがっているのだから」というものがある。まさにこのような、消費者のニーズを会社側がつくるといった姿勢が必要とされている風潮あるように思える。逆説的に考えると、消費者の潜在意識に眠っているニーズを会社が当てられなかったら、富を得ることはできないということだ。だから、現代ならば「民を愛する」ことのみでは流石に食っていけない。当たり前と言えば当たり前だが、「戦略」も必要である。

 「快楽主義的な幸福感」という言葉は現代に向けて発せられた言葉ではないかと疑ってしまう。快楽は易きに流れることで簡単に手に入る。人は得てして易きに流れがちだ。易きに流れるということは、無秩序であるということである。「無秩序」は、「自由」という言葉に置き換えられて是認されている。無秩序であることは、組織の弱体化を促す。さらに無秩序は伝統を破壊する。伝統は歴史が担保している民族の絶対的存在だ。それが壊れれば、その民族の精神は混沌に迷い込む。真善美と偽悪醜の区別がつかなくなる。少々話を膨らませ過ぎたが、この「快楽主義的な幸福感」は上記のような危険な可能性も秘めている。だから、何がかんでも「自由」であるのはまずい。まるで大木のように、「伝統」という名の幹があり、「礼」という名の枝があり、「自由」という名の木の葉があって、社会の恒常性は保たれる。

 

「富を得るのは礼節を知るため」という考え方は素敵だ。富は人としての道に近づく為の手段であるということか。メモメモ。

 

・封建制と立憲制

著書を引用する。

立憲制に代わりました。・・・・封建制とともに、それと結びついていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです。その間に「制度」を入れたとしましょう。君主はただの治者にすぎず、家臣はただの人民であるに過ぎません。もはや憲法に定める権利を求める争いが生じ、争いを解決する為に文章に頼ろうとします。昔のように心に頼ろうとしません。・・・・封建制の長所は、この治める者と治められる者との関係が、人格的な性格を帯びている点にあります。その本質は家族制度の国家への適用であります。したがって、いかなる法律や制度も「愛の律法」には及ばないように、もし封建制が完璧な形で現れるなら、理想的な政治形態といえます。

 

 立憲制は悪しき人を取り締まる上では効果を発揮する。善悪の基準や義務を明文化しているので抑止力が働くからだ。だから、徳の無い人が多い社会に向く。つまり、社会の規模が大きい時、或いは、社会が乱れている時、は立憲制であるべきだ。

 封建制は徳を持って行われる。皆が美徳に従って動いていることを前提としている。美徳を持っているが故に、暗黙の了解で秩序が保たれる。だから、善悪の基準や義務は可変的である。そこにおいては信用が担保されている。故に人間関係に奥行きが生まれる。非常に次元の高い制度であるから、社会の規模が小さい時、或いは、社会の構成員が最低限の美徳を持っている時に適用可能だ。

 

3人目は、二宮尊徳。 

代表的日本人を読んで 〜西郷隆盛編〜

代表的日本人が紹介している5人の日本人について記述する。
まずは西郷隆盛西郷隆盛陽明学を重んじていた人である。陽明学朱子学と並べて説明されることが多い。さて、「朱子学」並びに「陽明学」とは何か。色んなサイトから掻い摘んで整理してみた。
 
朱子学は「物に格(いた)る知」の学問、つまり「物の真相を知る」である。だから、分析的なアプローチが用いられる。また、その真相への至り方は「外」に向いているらしい。というのは、知識とか論理とかそういう頭の良さが大事みたい。その朱子学には、格物致知、先知後行、身分秩序、といったことが重要視される。まず「先知後行」を説明する。先知後行とは読んで字のごとく「先に知って後で行う」ことが良いとされる考え方だ。知ることに重きを置いている。次に「身分秩序」について。朱子学は形式的な「礼」を重んじて主君に従うことを重視した。従って、保守的になりがちで、革命が起こりにくい。故に、江戸幕府では朱子学が用いられた。
 
陽明学は「物を格(ただ)す心」の学問、つまり「物を正すために心を正す」学問である。また、その正し方は「内」に向いているらしい。というのは、直感や情とかそういう心の正しさが大事みたい。この陽明学には致良知心即理知行合一といったことが重要視される。先知後行と知行合一は相容れない考え方である。知行合一とは「知ることと行うことは同じであって、分けて考えるものではない」ということだ。陽明学を考えた王陽明の著書「伝習録」にはこんな言葉がある。「知は行の始めなり。行は知の成るなり。」つまり「知ったとしても行動しなければ、それは知ったということにならない」ということを言っている。ゆえに、行うことに重きを置いている。また、上下関係のあり方も少し異なる。形式的なものより、自由な心から生まれる心の正しさ、いわゆる「まごころ」を大切にして、上のものを敬い、下のものを軽んじ侮らないことを大切にした。
 
 
 
 
後者の陽明学を重んじた人は西郷隆盛の他に、大塩平八郎吉田松陰がいる。この偉大な人物を生んできた陽明学を学んだ西郷隆盛について3つの特徴を挙げ、それぞれ所感を述べる。
 
「天を重んじる」
西郷隆盛が天を重んじたとされる証言が幾つかある。そのうち2つ紹介する。
 
「天の相手にせよ。人を相手にするな。全て天のためになせ。人を咎めず、ただ自分の誠の不足を省みよ」
「天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」
 
いつも西郷隆盛の側には天の存在があったそうだ。
確かに、論拠を大切にする人間は、天の存在が不確かだと考えるので、上記の言葉には納得がいかないかもしれない。しかし、論証は不確かでも、この言葉の趣旨である、「人格の向上」を考えた時、(このような言葉を申し上げるのは天への冒涜に値するかもしれないが)「天」という存在を信じることは非常に効果のあることだと思う。天がいつも見ていると考えれば、人が見ていない時でも善行を積むようになる。そして、善行を積むことが習癖となる。習癖となれば善き人格が形成される。私は宗教には違和感を覚える人間なのだが、こういうポジティブな働きが強い信仰は推奨されて良いと思う。(ワンピースのルフィーみたいな自由をこよなく愛す人には向いてないかな)
 
「命よりも大義を大切に」

 生命第一主義がメジャーとなっている現代では受け入れがたい考え方である。西郷隆盛は仁義のためには躊躇なく危険な場に身を投じたり、死のうとしたりしていたという。西郷隆盛のこの言葉を聞くと多少頷けるのではないか。

「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることができる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である」
 

「どれだけ生きるか」より「どう生きるか」の方が大事、と言うと、より納得がいくようになるかもしれない。ただ、命を投げ出すのは、なるべく慎重にしたい。仮に自分のために人が死んだとする。もしかしたらその死んだ人は大義の為の死であって多少清々しいかもしれない。しかし、昔と違って今は生命第一主義の考え方になっているので、他方は気持ちの良いものでは無い。さらに、第三者からのバッシングも大きいだろう。また、昔であれば「彼は己の大義の為に・天の道の為に死んだ」となるかもしれないが、今では「あいつが殺した」や「俺が殺した」となってしまうかもしれない。

 

「情にもろい」

西郷は情のもろさ故に、謀反人になったと言われている。謀反人になって明らかに勝ち目のない戦争を仕掛けたとしている。

情は、思いやりの始点になる。故に、欠かせないものである。しかし、視野を狭める。思考力や決断力を鈍らせる。そうして「異常」となる。異常となった状態での決断は得てして間違っていることが多い。

情は、意識的に制御をしないと無秩序に膨れ上がる。西郷は情を抑える為に、禅を行ったという。しかし、十分に抑えきれなかった。どうすれば、良いのか。西郷の厚い情を抑えるほどの処方箋にはならないだろうが、自分の経験則から考えたのは理の上に情を乗せることである。理で全体像を把握する。すると、情の適切な膨らます方向・程度が見えてくる。この点においては、道理に反し、苛立つが、この点においては、理解はできる、という風に。情は諸刃の剣である。気をつけなければならない。

 

次は、上杉鷹山について。

 

(物質的な意味での)文明との付き合い方②〜文明社会の中での健全に生きる為の考え方〜

前回のブログではディベート形式で、物質的に豊かになるという意味合いでの「文明」の功罪について考えた。

これは弁証法を試みたかったからである。弁証法とは、

https://www.amazon.co.jp/3分でわかる-ロジカル・シンキングの基本-大石-哲之/dp/4534044089

によると「哲学的な真理などを導き出す時の思考方法。テーゼとアンチテーゼの物事の対立から、より高次の思考が生まれるというもの」と説明されている。今回は、この思考方法を用いて二つ目のテーマ「文明社会での健全な生き方」について考えてみる。(慣れない思考法なので間違いあれば申し訳ない。。。)

 

今回ディベートをして導かれた真理は

「知性が大事。人の知性の程度次第で文明は天使にも悪魔にも転じる」

ということだ。

文明との付き合い方で人間関係は良くも悪くもなる。文明が人類を滅亡させるか否かも、人間の倫理観と政治力次第。人格の劣化もネットを見る頻度やその種類次第である。良くなるか悪くなるかは人の知性によるのである。

ただ、どちらかと言えば、文明は悪魔に転じている傾向が強いように感じる。多くのメディアで日本人の知性の堕落が指摘されている。知性が堕落してしまった結果、大多数の日本人は文明と上手に付き合えていないようだ。だから、文明社会の中で生きるのであれば、それなりに気をつけて生きていかないといけない。そこで、何に気をつけるか、ということを3点記述する。

 

[文明社会を健全に生きるために気をつけなければならない3つのこと]

 

1.長期的な視野

得てして、文明の汚点は使い始めて時間が経ってから多くの人に認知されている。気候変動、絶滅危惧種、オゾンホール、原発、IT革命、核、等々、後からこれらの問題が発見されたり、指摘されたりした。さらに、残念なのが、問題が明らかになってから気がついて対策を取っていると手遅れになったり、時間が経ってから問題が顕著になったが為に解決の為にも時間を長く要するということである。「塵も積もれば山となる」のであって、問題は小さく見えても、長期的に使われるようになれば、或いは、それが全世界的に使われるようになれば、その問題は取り返しがつかないほど大きくなる。何か新しい物が開発された際は、問題が大きくなってから対処しなくて済むように、長期的な視野を持って、特にその文明の汚点に着目して向き合う必要がある。

 

2.多角的な視野

原発問題を例に挙げる。福島原発事故が起きるまでは、エネルギー問題は3E(Economy・Energy security・Enviromental friendly)の3視点で考えられてきた。福島原発事故が起きてから、ここにSecurityの視点が加わり、4視点(3E+S)で考えられるようになった。その結果、原発に対しての輿論の考え方が大きく変わった。原発が是か非かは別として、大事な視点を設けて考えられるようになったという点において、輿論はより健全になったのである。

本ブログでは文明とは物が豊かになることとしている。物が豊かになることは一般的には是とされている。故に自由競争は是とされていて、グローバルな規模でそれが展開されている。自由競争に勝つためには、各企業は、他社よりも魅力的な商品を製造しなければならない。だから、消費者にとって有益な情報をできるだけ公表し、都合の悪い情報は隠す、又は、探さない。この都合の悪い情報を見つける為に、多角的な視野を持たないといけない。多角的な視野を持って、はじめてその物の全貌が見え、本質が見え、善悪が見え、付き合い方・より良い考え方が薄っすらと見えてくるのだ。

 

3.根源的な視野

多角的に見ても、それぞれの視点が浅くてはいけない。根源的な「そもそも」な所まで考えなければいけない。例えば、再度、原発問題を例に挙げると、価値問題として「3E+Sのうち、それぞれをどの順番でどれほど重要視しなければならないのか」や「そもそも安全とはどれほど安全であれば安全と言えるのか」等、批判的な視点を持って、それぞれの論理や情報を疑いながら、思考を進めていくことが必要である。そうなると、哲学的な所に問いが行き着くので、少々哲学を勉強する必要があるかもしれない。こうして根源的な所まで考えることで、イデオロギーや感情に流されることは少なくなる。

 

以上が、自分の考える文明との健全な付き合い方である。上記に挙げた3点は簡単なことでは無い。常日頃心がけないと、身につかないことである。これからも今回紹介した3つの視野を意識しながら大学生活を営みたい。