平衡損失の歴史
西部邁さんの知性の構造から引用した。語彙の説明については便宜上省いている箇所がある。
実際、ここ数世紀の思想の流れを振り返ってみると、それは想像主義と事実主義の間のあいだの往復であったと言って過言ではない。啓蒙主義【1】から歴史主義【2】へ、歴史主義から浪漫主義【3】へ、浪漫主義から自然主義【4】へ、自然主義から象徴主義【5】、象徴主義から現実主義へ【6】、現実主義から超現実主義へ【7】、この一連の往復過程はすべて想像と事実のあいだの葛藤である。もっといえば、そうした葛藤においてどちらの方向において平衡を損失するかをもって表現の独創性とみなすような過程なのであった。
このことは、学問における個別の専門分野をみても言えることである。例えば、戦後日本においても60年代の半ば頃までは、社会主義ふうなものにせよ(アメリカ型の)近代主義ふうなものにせよ、抽象理論が幅を利かし、そこでは理想、観念、そして想像の力が存分に駆使されていた。つまり想像主義が支配的であった。それが限界に達すると、事実への執着がはじまり、具体描写が世間を席巻し、いわゆるノンフィクションにあらざれば表現にあらずといった趣になった。それはいうまでもなく事実主義の動きである。それに飽きて、事実そのものなんぞありはしないのだ、それは解釈次第で如何にようにも見えてくるものなのだということに気づくと、たとえばポストモダンという想像力の過剰と呼んでさしつかえないような表現がにわかに勢いを増した。しかしそれも世界秩序の瓦解という事実にぶつかってもあえなく飛散した。今は、一方で、世紀末現象の諸事実が次々と描き出され、他方で、すでに効力を失っているはずの旧式の理念を何とか焼き直ししたり継ぎ足したりしながら新規の理念を模索中であるらしい。事態はおそらく第47図のように変遷してきたのであろう。つまり、想像も事実もますますプリミティブなものに縮退しながら、その意味では平衡損失をどんどん際立たせながら、その間の往復運動の速度がしだいに大きくなっているという光景である。
これを表現のより高い次元にむけての平衡とその新たなる分裂として描くことも論理的には不可能ではない。しかし、実際には、それら新奇な表現はますます偏頗なものに傾いてきており、そこに平衡化(あるいは総合化)の努力が注がれているとは考えにくい。つまり、表現活動は、それが一個の「主義」になってしまうと、第42図および第43図でみたように、正価値(徳)のものから負価値(不徳)のものへと転落しがちなのである。
語彙の説明
【1】啓蒙主義
専制君主や因襲体系や宗教制度に支配されていた人間観や世界観を打ち破り、自然的・人間的な理性を尊重して、合理的精神を打ち立てることで人間生活の進歩をめざす思潮。
【2】歴史主義
一切を歴史的見地から理解し、それに個性や価値や発展を認める立場。元来は18世紀の抽象的な合理主義への反発として19世紀に現れたが、ドイツ・ロマン主義史観の直観には反対し、フランス流の実証主義と合体して、真理の基準そのものが歴史的に変化するものであるという相対主義的傾向を示した。
【3】浪漫主義
18世紀から19世紀にかけての西洋の芸術運動。西洋の合理主義への反動として興った。国によって様相が異なるが、理想主義、神秘主義の傾向と、自我の全面的な解放は共通している。勃興する市民階級の自己肯定と欲望拡大の表出とも言える。
【4】自然主義
19世紀後半に、特に文字に興った芸術運動でダーウィンやベルナールなどの影響で、遺伝や環境など、その頃の時代精神となっていた科学的方法を重視し、現実を写実的にとらえようとした。
【5】象徴主義
19世紀後半、特にフランスで興った芸術的動向。事実や感情や思想などを直接表現せず、現実主義的な世界観が捉えることができない意識や心理の世界を、シンボリックな手法で描いた。
【6】現実主義
社会的リアリズムのこととすれば、20世紀に勃興した社会主義・共産主義国家の成立により、唯物史観を認めた上で社会主義革命を目的とする人間を書く方法として提唱された芸術上のモメント。優れた作家や作品を多く輩出したわけではないが、革命のプロパカンダの手法として世界中に広まった。
【7】超現実主義
第1次世界大戦の20世紀初期から中期にかけて、ヨーロッパ、アメリカ、極東なので広まった芸術運動。浪漫主義や象徴主義などの影響が見られ、それまでリアリズムと呼ばれてきた表現に、自動筆記やコラージュなど新たな表現方法を加えることで、より高次で強度の現実意識を喚起しようとした。20世紀の芸術運動として革命やファシズムなどの時代の激動にもまれながら、また、写真や英語など新しいメディアにも浸透し、多岐に渡る問題を抱えた芸術運動である。
これまで、想像主義と事実主義を行ったり来たりしたそうですね。想像主義に世論が偏り過ぎていると、「口だけ」と言われる政治家や思想家が多くなり、そうして現実的であることが重要になるのでしょう。そうして、現実に即した考え方をする思潮がおきます。その思想の流れは思ったより早いもので、中立な所で止まることはできず、次は、事実主義に偏ってしまいます。これが繰り返されてきたのでしょう。
「⚪︎⚪︎主義」や「多数派」といった言葉に惑わされず、Indipendenceを保ってものごとをバランス良く考えることが、健全な自分の思想を持つためには大事なことなのかもしれません。
今日はここまで。
うんちに学ぶ処世術
小学生が最も頻繁に口にする言葉は「うんち」だろう。
僕は君に恋している者ではないが、しかし、そうであるからこそ、君はぼくの願いを受け入れ、ぼくに身をまかせるべきだ。
野矢 茂樹さんの論理トレーニングに面白い話があったので紹介する。
僕は君に恋している者ではないが、しかし、そうであるからこそ、君はぼくの願いを受け入れ、ぼくに身をまかせるべきだ。というも、君は、君に恋している者に身をまかせるべきなのではなく、寧ろ、君に恋していない相手にこそ、身をまかせるべきだからだ。
第一に、恋をしている者は、冷静ではいられず、自分ではコントロールできない力に突き動かされている。しかし、自分の意思で行動できないような相手に身をまかせるべきではない。君は、自分の意思で自由に君を求める者こそ、身をまかせる相手として選ぶべきだ。そのように冷静に君を求められる者とは、君を恋していない者にほかならない。
第二に、君はより多くの人々の中からもっとも君にふさわしい相手を選ぶべきだ。ところが。君に恋している者と、君に恋していない者とでは、当然のこととして、君に恋していない者たちの方が圧倒的に多い。だから、君は君に恋している者からではなく、君に恋していない者たちの中から、身をまかせるべきだ。
思想が歪んでいる人を口説き落としたい時は、使ってみると良いかもしれませんね。笑
(人にみてもらいたいなぁと少しばかり思っていた所はここで終わり。ここからは蛇足なので、当ブログのページを閉じることをお勧めする。)
この本の中では、この文章を読んで、
①論理構造を取り出し、論証図を作成する
②可能な限り反論する
と二つのトレーニングが準備されている。今回はそのトレーニングの②だけを当ブログにて行う。暇で暇でしょうがない時に、暇の持て余し方がわからなくなってしまって、暇の持て余し方について考えることに忙しい方は、論理の洗練のためにやってみてもいいかもしれない。
⑴根拠の正しさに関する反論
⑵導出の関連の強さに関する反論
⑶前提にされている価値基準に関する反論
⑷対立評価の提出
⑸相手の論理で相手の主張を切り崩す
の4つの反論を使用する。
⑷あなたよりももっとマシな男がいる
⑸あなたは星の数ほどいる、あなたの言う”恋をしていない”女性の中から私に興味を持った。そうして、少し考えれば、思っていても言ってはいけないことを言っちゃってる。既に自分ではコントロールできない力に突き動かされているわ。だから、私を選ばない方がいい。
⑴恋をしている者の全てが自分ではコントロールできない力に突き動かされているわけではない
⑴恋をしている方が相手のことを考えるかもしれない。
⑵恋を自分の意思で自由に私を求める者は、私への執着心がないわ。だから、何か不愉快なことがあると、すぐ別れるでしょう。必ず、不愉快なことはあるわ。すぐ別れるのだったら、付き合わない方がいいわ。
⑷最も多くの人の中から私にふさわしい人を選ぶ方法は、恋の有無を気にせずに人を選ぶことだわ。
⑴考えるべきは「君に恋していない人の数」ではなく、「君に恋していないけれど、君を欲している人の数」。寧ろ、人数は少なくなるわ。
⑶恋愛感情の無い関係に魅力を見い出せない。
終わり。
ビジネス is サッカー
ビジネスはサッカーに例えられる
サッカーは、①決められたルールに基づいて、②決められたフィールドで、③決められた時間で、④決められたメンバーで、⑤決められたボールを使って、⑥点数を競い合う。
ビジネスも同様
①法律という決められたルールを守って、②ビジネスが可能な分野において、③商売が可能な時間で、④その業界に携わるビジネスマン同士が、⑤共通言語を使って、④お金を奪い合う
それぞれを具体的に書く。
①ルール
サッカーでは、
違反する者がいる。それは大小様々。故意なものもあれば、そうでないものもある。故意なものに関しては、罰が大きい。退場になることが殆ど。そうでないものは、罰は小さい傾向がある。また、シミュレーションをするズルい人は少なくない。
ビジネスでは
ルールを破れば、法がくだる。かつてのホリ⚪︎モンのように、その業界のルールを破れば、他者からの信用を失い、ひどい場合はビジネスの場から強制退場させられる。また、法を利用して相手に損害を与えることも与えたり、ビジネス倫理には反するが法の間をかいくぐったり、する人もいるみたい。
②フィールド
サッカーでは、
フィールドが限られている。ボールがフィールド外に出たら、フィールド内にボールが戻されてプレイが再開される。フィールドはプレイしやすいように常に手入れをしておかなければいけない。
ビジネスでは、
商売は、八百屋であれば店の中で、株であれば証券取引所で、金銭的なやりとりが行われる。必ず、商売が可能な場所において商売を行わなければならない。商売を行う場所は、常に整理されておかなければならない。
③時間
サッカーでは、
1試合、前半と後半で合わせて、90分で行われる。また、ハーフタイムが15分ある。プレイ時間の中断時間に応じてロスタイムもある。
ビジネスでは、
勤務は原則、午前中と午後に、その会社で決められた時間で勤務をしなければならない。お昼休憩時間が1時間ほどある。仕事が捗らなければ、残業がある。
④メンバー
サッカーでは、
11人VS11人で試合が行われる。それぞれのメンバーにはそれぞれのポジションがある。チームプレイが重要である。プレイヤーが不調だったり、相手のチームとの相性が悪かったりすると、メンバー交代が行われる。交代できる人数は限られている。また、サポーターも12人目のプレイヤーである。
ビジネスでは、
人数には多少の差はある。 それぞれのビジネスマンには部署が与えられ、役割が与えられる。協働が重要である。ビジネスマンが不調だったり、その部署との相性が悪かったりすると、部署移動をさせられたり、他の会社に行くよう勧められる。また、その会社を応援してくれているお客さんや取引先、株主の存在が会社に元気を与えてくれる。
⑤ボール
サッカーでは、
ボールを手以外の場所を使って、ドリブルやパスを繋ぎ、ゴールの中に入れる。
ビジネスでは、
ビジネスで使用される言語を使って、プレゼンをしたり、コミュニケーションをしたりして、クライアントやお客さんの信用を得たり、価値のある商品を売ったりする。その対価として、お金を得る。
⑥数値への変換
サッカーでは、
相手のゴールの中にボールを入れた回数は、点数として換算される。その点数が多い方が勝ちとなる。
ビジネスでは、
クライアントやお客さんの信用を得たり、価値のある商品を売ったりして、お金を頂く。会社員の生活を賄うだけの収益を得られなければ、その会社は倒産する。
他にも、両者とも、勝つためには、仲間で共通の目標を持たないといけなくて、戦略も技術も大事だし、健康管理も大事で、各々が陰で努力することも大事で、笑顔がないと努力は続けれらなくて、優秀な指導者でないと人はついてこなくて、自分の仕事道具は毎日入念に手入れをして、、、、結果を出すために持っておかなければいけない気持ちも考えるべきことも根本的には大差ない。
サッカー以外にも、チームスポーツでもほとんど同じように解釈ができるだろう。 チームスポーツをよく分かっていて、きちんと結果を残すことができる人は、ビジネスでもきちんと結果を残すことができる人なのかもしれない。
今日はここまで。
並列つなぎ型人間とと直列つなぎ型人間
並列つなぎっぽい考え方と直列つなぎっぽい考え方があると思った最近。
並列つなぎは、光の輝きは鈍いけど、寿命は長い。
直列つなぎは、寿命は短いけど、鋭い光を放つ。
具体的に色んな事柄をこの二つの考え方で分けてみる。
お金の使い方
並列つなぎ
- もしもの為に、節約して貯金しよう
直列つなぎ
- 今を楽しもう。お金はじゃんじゃん使うもの
長生き願望
並列つなぎ
- 頭と体が衰える前に死にたい
直列つなぎ
- 頭と体が衰えても長く生きたい
高校生活の過ごし方
並列つなぎ
- 将来のために、色々やりたいことはあるが、我慢して勉強をしよう
直列つなぎ
- いつ死ぬか分からない。今はしたいことをやりまくろう
並列つなぎ
- このまま裕福な生活を続けていたら、人類が滅亡する日がやってくるのがすぐ。だから、生活の質を落としましょう。
直列つなぎ
- どんなに対策を講じてもいづれ人類は滅亡する。だから、未来の世代のことは気にせず化石燃料を使用して、今生きている世代が幸せになれるようにしよう
政治
並列つなぎ
- 集団的自衛権:将来、当該権利を持たないと日本が攻め込まれて、敗戦する可能性があるので
- TPP:今後、少子高齢化により人口が減少し、国内市場が減少し、経済成長をするためには、成長している諸外国を相手に貿易をするしかなくなる
直列つなぎ
どちらも一長一短ありますね。
人間が電池だったら、電力は限られているので、どちらかを選ばなくてはいけない。
幸いにも、人間は電池ではないので、両方選べそう。志を立てて、気概を持って、知恵を振り絞って、誠実に行動すれば、両立できるんじゃないかと思ってます。
できる限り、今も輝きながら、将来も輝いていける最適な方法はあるはず。
それを模索していきたいものです。
今日はここまで。
P.S.前回投稿した記事「マズローの欲求から見る温暖化の「防止」の可能性」の投稿を大幅に修正しました。間違いがあったからです。計算や考え方が間違っていました。申し訳ありません^^;
「怪しい」と感じるメディアの発言
サイエンスゼロの「
原発関連は、改竄だの隠蔽だの「裏」の匂いがプンプンするものです。上の番組のあるワンシーンから匂ってきました。それは、23:20のシーンのアナウンサーの一言。「放射線医学総合研究所によるホールボディーカウンターの調査では、今の所、水に溶けない粒子(セシウムボール)を吸い込んだ人は発見されていない」という発言。これをプンプン発言と名付けます。
どういう文脈の中でプンプン発言がされたかと言うと、
1.セシウムボールが発見された
2.セシウムボールが非常に危ない
3.セシウムボールは危なくない
というように中立的「な風」に様々な意見を取り入れながら話を展開していたのですが、その最後のあたり、3の所で述べられました。プンプン発言は非常に強力でした。「セシウムボールは吸い込んだら危険ではあるが、そもそも吸い込んだ人がいない」という内容です。セシウムボールの危険性を相殺しました。( 一般人から見ればそう聞こえました)
しかし、そんな大事な発言にも関わらず、何人調査したのか、をテレビの中では公表しておりません。また、非常にあっさりと情報を流しているのもちょっと気になります。他の専門的な話を持ち出す際は、他の研究者の所にインタビューを行ったり、絵やサブタイトルを使って、印象的に情報を流したりしています。しかし、大切な部分であるにも関わらず、この部分はサブタイトルが無く、専門家ではないアナウンサーがさらっと説明しているだけなのです。「怪しい」と思いました。
そこで、まず、気になった「ホールボディーカウンター」について調べてみました。これは、体内に存在する放射性物質を体外から計測する装置です。この装置でセシウムボールが体内に存在するかわかるそうです。この装置の信憑性と調査の仕方について調べました。
①「ホールボディーカウンターは受ける必要はない?
http://mominoki-iin.com/whats/20120116/
②「ホールボディーカウンター 調べて分かった被曝の現状」
http://synodos.jp/fukkou/1129/4
①のサイトから、放射線を出すヨウ素131の半減期が非常に短いのですが、ホールボディーカウンタによる検査を始めた時期が遅れたせいで、ヨウ素131がほとんど見つからなかったこと
②のサイトから、現状の被曝状況を調べても被曝当時の被曝の程度が分からないこと
がわかりました。
そうして、「放射性物質が体内から抜けるのを待つために、敢えて検査の時間を遅らせたのでは?」とより一層怪しく思ってしまいました。
次に、アナウンサーの発言がなんの情報から抜粋したものかを調べてみました。
恐らく以下のサイト。
http://www.env.go.jp/chemi/rhm/kisoshiryo/attach/201510mat2-06-47.pdf
平成23年6月27日から平成27年1月31日までに24万2,974名が放射線医学総合研究所を含む11機関によってホールボディーカウンタによる内部被ばく検査を受けたようです(放射線医学総合研究所は1年しか関わっていないようです) また、この1年の期間で、放射線医学総合研究所は、ホットパーティクル(セシウムボール)の調査をしていたように思えます。放医研がプルトニウムなどのアクチニド核種の内部線量に詳しい専門家を調査期間中に募集していたようで、ここから考えられます。
http://ameblo.jp/don1110/entry-11107326251.html
結局、一番知りたかった「何人に調査をしたのか?」が分かりませんでした。恐らく、直接問い合わせたのでしょう。今は、不信感だけ残っています。
専門的な話をする時は、論文と同じように、正確で具体的なデータが欲しいなと思った日でした。
学ぶことと考えること
人はいつも情報を入手しようとしています。
テレビや携帯や新聞やラジオ
手段は様々です。様々な手段の中で最も質の良い情報が得られる手段は本ではないかと思います。今回は、その本による情報の入手の仕方を切り口にキーボードを叩きます。
本を読むことは良いことです。
ある分野の専門家や過去の優れた人物の考えを知ることができます。
そうして、その本の世界観に浸ります。
その著者が偉ければ偉いほど、その人に洗脳されてしまいます。
また、本を選ぶときは、自分の好みに合うものばかり選んでしまいがちです。
これは「認知的不協和」という人間の心理らしいです。人は自分にとって都合の良い情報を重要視し、都合の悪い情報を軽視する傾向があるみたい。
これでは、考え方が偏ってしまいますね。怖いのが、自分ではなかなか偏っていることに気がつかないこと。疑うことをしない人は、その本に書いてあることが全てであるかのような錯覚に陥ることがあるでしょう。
本を選ぶとき、本を読むときは、きちんと考えることが必要なようです。
自分の考え方が偏るような本の選び方をしていないか、本の情報は正しいのか、本の中で述べられている主張の逆はどういうものが考えられるか、と言った風に偏った情報の入手の仕方をしないように気をつけることが大事なようです。今では、こういうことを「メディアリテラシー」という言葉で表現していますが、昔も同じようなことが言われていたみたい。論語の一節に以下の言葉があります。
『学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し
思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し』
意味は
「学んでも考えなければ、[ものごとは]はっきりしない。
考えても学ばなければ、[独断におちいって]危険である」
です。
学んだら、その情報を自分の実体験や他の情報と照らし合わせて、その情報の信憑性や価値の程度を定めて、自分の血肉としたいですね。
また、自分の考えだけだと、どうしても視野が狭くなってしまうので、本を読むことで、中庸を保ちたいですね。
今日はここまで。