自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

マズローの欲求からみる地球温暖化の「防止」の可能性

(これ全然参考にならないので見ないでください)

地球温暖化の「防止」はどれくらい可能なのか、人間の欲求の視点から考えてみます。

まず地球温暖化の現状について。IPCCコミュニケーターが使用できる共用のプレゼンの一部を抜粋します。

 

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産業革命前から約二度程度(現在と比べて、1~2度)上昇すると、熱波や極端な降水などの異常気象、米や小麦などの収量への影響などに関連するリスクが「かなり高くなるものがある」と言われています。

さらに、4度程度(現在と比べて、3度~4度)の上昇となると、海水面の上昇、生態系や経済的な損害のリスクが高くなる等、「ほぼすべての分野におけるリスクが高くなる」と指摘されています。

このような地球温暖化がもたらすリスクを考えて、国際的には産業革命前から2度未満に温暖化を抑えることが合意されています

 

では、2度の上昇までにどれくらいの時が残されているのでしょうか?下の図を見てください。

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年々、CO2排出量は増加傾向にあるので、現状と同程度の厳しさの温暖化対策が続けば、30年よりも早く2度上昇をもたらしてしまう可能性すらあるそうです。

 

あまり実感できませんが、いずれ人類の存続を揺るがす問題になるのが地球温暖化です。特に日本への悪影響は著しいようで、例えば、台風が巨大化すると言われていて、フィリピンを襲ったヨランダ(死者数6201人、負傷者数28626人、行方不明者数1785人)みたいな恐ろしい台風が日本を頻繁に襲う可能性も十分に考えられているそうです。

 

ここから、この大きな問題について「欲」の視点から考察をしてみます。今回は、温暖化を2度未満に抑えることができるのか、ということに絞って考えてみます。

 

まず、マズローの欲求について5段階と6段階のものを載せます。

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出典:pasokon-kasegu.com

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周りを見渡してみると、地球温暖化への対策は「他者への奉仕」と捉えている人がほとんどです。人類が絶えるか否かの至上命題と捉える人はほとんどいません。だから、地球温暖化の対策をする欲求は、マズロー5段階目か6段階目にあたるとして、ここに該当する人を非貧困層とします。また、以下のサイトより

世界を考える部屋:世界の人口比率|翻訳会社、海外調査会社、多言語WEB制作、外国語人材派遣・紹介・採用 WIP ジャパン

世界人口の80%が標準以下の居住環境に住んでいることがわかります。従って、20%の人が非貧困層で「欲」の延長線上で地球温暖化の対策が可能とします。

次に、一人当りの現実的なCO2排出量削減率についてざっくりと考えてみます。日本はCOP21で、2030年度に2013年比で温室効果ガスを26%削減するという無茶と言われている削減目標を立てています。これもかなり雑ですが、日本の削減目標にならって、20%にあたる非貧困層の欲が26%減って、全ての経済活動にそのまま影響し、CO2排出量が削減されるとすると、二酸化炭素排出量は現在の94.8%になります。(0.2*(1-0.26)+0.1*1=0.948)さて、現在と比べて94.8%のCO2排出量になることで2度の上昇は防げるのでしょうか?

以上のように考えた場合だと、答えは「否」となります。

IPCCは、2度の上昇を防ぐためには、2050年には世界の温室効果ガスの排出量を「2010年に比べて40% から70%削減する必要がある」としています。かなり楽観的に見積もったのですが「最低の40%」(2010年比60%)にも及ばず、2度の上昇は妨げることができません。

ちょっとだけ期待していたのですが、、、ちょっと落胆しています。(泣)

では、90%にあたる非貧困層は、最低でも現在と比べてどれくらいの欲になれば良いのでしょうか? 答えは25%。(確かめ算 0.8*0.25+0.2*1=0.4) 非貧困層は欲を現段階の25%にすると言うとなかなかイメージがしにくいですね。空調や電気の使用量を今と比べて25%にすると考えると良いでしょう。また、計算はできませんが、世界における自動化と人口増加が電力消費量に拍車をかけるので、もっと節約した生活が求められるようになるのでしょう。

 

これは、、、、無理ですね。

 

結論

地球温暖化を食い止めることは世界中の20%の人がエコな生活を心がることだけでは不可能なことが分かりました。科学技術の発展により、二酸化炭素をできるだけ排出しない何か、二酸化炭素を吸収する何か、が必要なようです。

また、温暖化は「緩和」はできますが「防止」は非常に厳しいでしょう。従って、自分たちも、暑い日は、帽子を被ったり、水をこまめにとったり「適応」していかなけばなりませんね。 

「主体性」について 私見

前回のブログでは「主体性」について主体的に書けませんでした(笑) 本の受け売りばかりで、ちょっと気にくわないです。だから、恥ずかしくてFacebookから消そうか迷っていた自分が初めて主体性の重要性を実感を伴って意識した時の文章の一部を晒しときます。我ながらいいこと書いてるなぁと思っている大事な大事な長文です。

 

9/1-9/11
サークルでインドネシアに行ってきました。(省略)

今回の遠征を通して、"主体性"って大事だなぁと思いました。

辞書で意味を調べてみると、"主体性"とは、
「自分の意志・判断によって,みずから責任をもって行動する態度や性質」
と書いてありました。

ちなみに主体性と混合されがちな"自主性"は以下の通り。
「自分の判断で行動する態度」

自分は
主体性とは、「何をするかは決まっていない状態において、自分の意思に従って、行動決定を”責任”を持って行うこと」

自主性は、「何をするかは、(上から)定められていて、その目的を達成するために、自分で考えて動くこと。責任の所在については不明」
と解釈しています。

したがって、"主体性"は"自主性"の上位概念であり、自分はこの"主体性"が何かを成し遂げる際には重要だとこの遠征で感じました。

かなり平たく言うと「自分のこととして捉える」ってことでしょうか。。。

主体性を持つことで
広い視野で深く考えることができ、”最適解”に近い解に到達しやすくなり、
仲間のことを、自分のことのように想うことで、確かな"信頼関係"を生み、
責任を持って物事を行なうため、確実に"結果"を出すことだできるようになり、
この根本的な"心構え"があるだけで、大きく環境は変化することを身にしみて感じました。

この言葉は、これから自分が、自分の"納得"のいく人生を生きる上でのキーワードになっていくと確信しています。

"人生"は連続した"選択"から出来上がっていて、1つ1つの選択においては、きちんと"思考”しなければなりません。その思考は、”感情”により命題が示唆され、その命題に対して演繹を行うことを指すとします。すると、その初めの”感情”は、"心構え"によって決められる割合がかなり高いと思っています。

したがって、”主体性”という"心構え"は、”確かな選択”を生み、その選択が積み重ねが”納得"のいく人生を構築します。

この「心構えが人生を決定する」という綺麗ごとのような話は、決して大きな論理の飛躍ではないと思っています。

実は、この話は、既に、京都大徳寺大仙院の尾関宗園和尚様がもっと分かりやすく、的確に表現しています。僕の好きな名言です。紹介します。

心は行動となり、

行動は習癖を生む。

習癖は品性を創り、

品性は運命を決する。

(省略)

 

 やっぱり主体性は大事ですね。

 

本に載っていた「主体性」に関連した偉人の言葉をなんとか繋げてみた

今日も安岡の「運命を創る」から。今回は、自分が本の内容を理解できなかったので、内容を整理をする目的でブログの更新を行っています。

 

まず、自己の完成について近代スイスの最も尊敬すべき学者であり、実際家(理論や形式などよりも、物事を現実的に処理することを好む人)であり、経済家であるヒルティは、人がいかに完成されているか見極めるかということについて以下のことを述べています。

 

「男子は、その仕事場で、女子はその家庭で、働く様を見て本当にその人となりが分かる。男女共、つらいこと、苦しいことに際して最もよく彼らのことを知ることができる。最も分からないのは社交の場である」

 

 

ところが、近代はその自己完成というのが失れているそうです。

同じスイスの哲学者アミエルは以下のように言っています。

 

「蟻丘の時代群衆的生活の時代が始まっている。もし抽象的平等が勝つならば、個人主義の世紀がもはや真の個人を見ることができないという大危機が流行する。絶えざる平均化と分業とによって、社会は一切となるが、個人は皆無であろう。」

 

社会生活の単位が徐々に個人から集団へ移っていって、真の個人、いわゆる主体性が失われていくようですね。実際に、日本では第二次世界大戦の敗戦によって米軍に一時的に支配され、色々と改革されて良き点・悪い点と様々な影響が出ましたが、その影響の中で最も悪いのが「組織化」による自己の損失らしいです。主体性が損失すれば、自己の完成もできないでしょう。

 

また、主体性の損失の原因はもう一つあるようで、ニュルンベルク裁判(第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判)においてナチ当時の軍需相であったシュペーアがこの件についての以下のように述懐をしています。

 

「科学技術が発達して、機械的組織が完備するに従い、人間は次第に単なる命令受領者にすぎなくなって、その結果、独裁者を生ずるようになる。今後、社会が機械化するほど、同時に自由な個人の完成に努力しなければならない」

 

「機械化」も主体性の損失の原因であるとのことです。

 

この後、忠君愛国や軍閥が無くなっていき、社会全体が実存主義に傾いた考え方になって、その後、残念なことに、世の中には価値のあるものは何もないと、虚無主義になっていったそうです。私は、何でも疑い過ぎると虚無主義になってしまうと思っています。(不勉強で不確か) 順番は、懐疑主義虚無主義の順番だとするならば、早めに、懐疑主義に陥った時に、対策を打たなければいけないといけません。

 

人類の恩人であるパスツールはパリのソルボンヌ大学で学生に以下のように語っています。

 

「何ものをも生み出すことができない懐疑主義に染まってはならない。諸国民を疑うある時期の悲哀によって落胆せしめられてはならない。①まず自ら問うてみることである。自己の修業のために何をなしたかと。そして諸君が次第に進歩したならば、自分は祖国のために何をなしたかと自問してみなさい。そして諸君は、ついに人類のために、また、その進歩のために、何らかの形で寄与したという自覚で、広大な幸福感に浸りうる時が必ず来るであろう」

 

①の精神が大事なようです。これは、自己の完成を問う質問です。自己の完成のためには、主体性が必要です。

 

まとめると、近代は、組織化・機械化によって、主体性が無くなり、自己の完成が困難になった。懐疑主義へ、そして虚無主義になった原因も主体性の欠如である。ということでしょうか? 主体性が大事なんでしょうね。しかも、組織化しても主体性がなければ、その組織は崩壊してしまいます。

後は、この主体性の重要性について2つ引用してみます。

かつてマルクス主義哲学の権威者であるベルジャイエフは、以下のように述べています。

 

「結局、社会の将来を決定するものは、その組織をどれほどか完成に近づけるにあるのではなく、その組織に参ずる多数の者の個人的価値、また彼らが、それを以っていかに集団に参加し、その影響を受け、さらに影響を与えるかという働きにかかっている。」

 

一人一人が主体的に社会に参加することがその社会の将来を決定するようですね。

 

また、この「主体性」という「精神」が大事なことについて、

ドイツのインフレ禍を救ったシャハトが

「深い精神的・感情的生活がすべての物質的生活の有効迅速な解決を助ける」

といっています。

 

やばいですね。「主体性」

海老に学ぶ活き活きとした生き方

安岡さんの「運命を創る」という本に面白い話があったので紹介します。

 

海老というのは、普段は「体が曲がっているから、男女の腰の曲がるまで、すなわり老年に至るまで長生きをしてともに添い遂げるという意味でめでたい象徴」として使われています。

しかし、こういう説もあるそうです。

「えびは、あんな硬い殻をやぶっているように思うが、実は生きている限りは際限なく殻を脱ぐのだそうです。あの殻が硬くなると、いつでもすっぽりと抜いでまた柔らかくなる。季節で言うと、たいてい秋になると物がこわばり、落葉したりするのでありますが、えびは秋になてもやはり殻を脱ぐ。すなわち生きている限りは、いつまでも殻を抜いで固まらない。常に弾力性を持っているということから、いつまでも老いない。固まらない、常に若さを持ち続けるという意味で、すなわり永遠の生命、永遠の若さをシンボル」とするのだそうです。

 

後者の方が個人的には好きです。ちょっと拡大解釈をしながらキーボードを叩いてみます。

人間は生きていると様々な殻をかぶることになります。主に2つの殻があると思っています。自分の肩書きによって付される「肩書殻」と人格に付される殻「人格殻」です。

肩書殻は、医者であれば「医者殻」、研究者であれば「研究殻」、弁護士であれば「弁護士殻」と多種多様。専門家の多くは、自身の専門分野のみに特化してしまい、他分野の学問を学ばなくなります。これでは、物事の一側面しか把握することしかできず、全体像を把握できない。だから真理に到達しない。例えば、原発であれば、あの問題は、エネルギー学、経済学、放射能学、物理学、政治学、医学、統計学、等の様々な視点を持って総合的に考えなければなりません。それぞれの専門家はそれぞれの専門分野に応じた情報や仮説を考えますが、それらは有機的な繋がりはなく浮遊してしまっていて、なんとも扱いにくい状態になっています。分野横断的に学問をしてこそ真理たるものが見えてくるのではないかと思うのです。私は、真理の追究が人間らしい知的生産活動の本質だと思ってまして、それを怠ると「人間らしい活き活きとした生き方」から遠ざかってしまうと思っています。

 

「人格殻」はその人の人間的な成長や精神のエネルギーに覆い被さる殻です。ある程度年を取ったら余生は心行くまま生きようと、安きに流れていくのが普通なのかと思います。もし一般の老後の生き方を若い時に行っていたら、それは「堕落した生活」と称されてしまうでしょう。

本来、どんなに年を老いても自己成長・自己探求しようとする熱意を持ち、自己批判を繰り返し、自己革新を続け、高みを目指す若き精神を持ち続けて行くことが理想なのかもしれません。そうして一生の中で最も素晴らしい自分になって死を遂げると誇らしく感じるのではないかと思います。「終わりよければ全てよし」という言葉がありますが、そうであるならば、死ぬ時は立派に死にたいものです。精神的には老いたくないですね。精神的に老わなければ、実際に寿命だって長くなり、自分のやりたいことがやれる可能性も高まる気がします。

最後に、安岡さんの言葉を引用します。 

我々は、"老いる"ということが必至の問題であるにもかかわらず、とかく老を嫌う。老を嫌う間は人間もまだ未熟だ。年とともに思想・学問が進み、老いることに深い意義と喜びと誇りを持つようになるのが本当だ。

今日はここまで。

 

数字で見る世界と日本

数字はあくまで物事の一側面しか捉えることしかできません。

しかし、その側面を共有可能な、普遍的な価値基準を持って評価するには適切なツールだと思います。今回は、世界の中で日本はどういう位置づけにあるのかということを把握するためと、英語を勉強する動機付けのため、ざっくばらんに色んな「数字」を引っ張ってきました。

 

 

世界の情報(主にYoutube動画”Did you know”より引用)

 

・現在の世界人口は70億人以上。2050年には90億人。1秒で2.5人増えている。

・もしあなたが中国で「100万人に1人の逸材」なら、あなたみたいな人が中国国内に1300人いる。

・中国はまもなく世界一英語が話されている国になる。

・インドの「IQが高い側から25%」はアメリカの全人口より多い。

つまりアメリカに生まれる全ての子供よりインドに生まれる優等生の方が多い。

・2010年に需要のある仕事上位10位は、2004年にはまだ存在していない。

 

日本の情報

・1年に30億円以上が落とし物として届けられる。

・2年連続で京都が観光都市ランキング1位。

・総合的な豊かさ?2008年 1位 http://hon.bunshun.jp/articles/-/3003

相対的貧困率 Worst 4位。

・世界に先駆けて超高齢化社会突入。2050年には1.5人で1人の高齢者を支える。

TOEFL点数 アジア30カ国中28位

OECD国で最低賃金ワースト1位

・国の借金1044兆円

・世界の経済成長率ランキング 188カ国中172位

GDP 1995年 2位 2015年 3位

・一人あたりGDP 1995年 3位 2015年 20位

・貯蓄率 1995年 12.6% 2009年 2.3%

・学力 2000年 数学的リテラシー1位、科学的リテラシー2位、読解力8位

    2012年 数学的リテラシー7位 科学的リテラシー4位 読解力4位

 

感想

怖いなと感じました。

発展途上国の経済的な急成長、世界人口の異常な増加、AIによる単純労働の減少、が国同士、人同士の競争を激化させます。さらに、グローバル化がそれに拍車をかけます。そして、多くの敗者を生み出します。日本は、国レベルの戦いで負け組サイドに位置し、結果、国内で敗者を多く生み出し、敗者にとって暮らしにくい国になると思います。というのも、経済的な成長率はマイナス傾向ですし、海外と戦う上で必要不可欠な英語が話せません。だから、これまでと比べると国レベルでも、個人レベルでも競争力は相対的に劣っていくんじゃないかと思います。そうして、競争に負けた者は生活をギリギリ支えるためのお金しか手に入りません。しかも、その苦しめられる数は決して少なくないでしょう。というのも、柳井正さんの言うように、今後、世界同一賃金が当たり前の世界になるとすると、年収が100万円か1億円に分かれる中間層のいない世界になるようです。高収入層はもちろん低収入層より少ないので、半数以上は低収入層になると考えられます。これは、格差が広がっていってるアメリカでは約半分が年収300万円以下(2009年)であることを考えると無視できない仮説ですね。 つまり、暮らしにくいと感じる国民が半分以上になる未来が待っているかもしれないのです。柳井氏が「グローバル経済というのは『Grow or Die』」と述べてますが、日本はどちらに転ぶのでしょうか。

 

もう、これまで通り「お上についていけば何とかなる」では済まされなくなってきました。環境が昔と比べれば大きく変わっていってるのですから、それに応じて自分自身の在るべき姿も変わらなければ淘汰されてしまいます。もちろん、上記な述べたような未来になるかは確証は持てませんし、上記に述べた未来にならないことも確証は持てません。でも、どちらかと言うと、日本の未来に希望があると言ってる人は見たことがないので(なんとかしようとしている方は沢山見かけるが)暗めな未来が待っている方があり得ると思います。そんな不安な未来に対応するためには、社会に興味・関心を持って、何をすべきか考える姿勢が大事なようです。

 

追加

年間1万人の過労死

年間3万人の自殺 ・300万人の精神疾患

労災認定「813人」

不払い残業代は年間27兆円(1993年)

GDP比5.4%

ecodb.net

「ヒトらしい」ではなく「人間らしい」をパスカルの視点から考える

よく「人間らしい」という言葉を聞きます。それは、動物としての「ヒト」らしくないということでしょう。今回はこの「人間らしい」について考えてみます。

 

まず、先哲が様々な名言を見てみます。

 

「人間は社会的動物である」(アリストテレス)

「人間は半ば社会的、半ば孤独な存在だ」(ラッセル)
「人間は、どんなことにでも慣れる動物だ」(ドストエフスキー)

「心をもった機械」(デカルト)  etc...

 

どれも、真理を述べているのでしょうが、今回は最も有名な(僕が好きな)フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルが述べた「人間は考える葦である」の定義に乗っかるとします。ここで使われている「考える」は最低猿以上の高次の思考をすることを指していると思います。そこで「知性」があることを人間であることの条件とします。

「知性」という言葉もあまりピンと来ないかもしれませんので、具体的に述べてみます。知性の意味は、google辞典よると「物事を知り、考えたり判断したりする能力。」とのこと。この定義をもっと絞ります。猿に出来ず人間にできることに絞ります。

 

「物事を知る」

モノやコトを言語的に理解し、整理し、解釈を施すことができる。抽象概念を理解することができる。

 

「考える」

抽象概念や言葉を用いて論理的に思考することができる。

 

「判断する」

己の良心に基づいて、複数の価値観や仮説を考慮し、最適解を選択することができる。

 

従って、「人間らしい」とは、「具体物と抽象概念を言語的に理解して整理し解釈を施すことができ、その解釈を施した情報を組み合わせて論理的に思考し、己の良心に基づいて、複数の価値観や仮説の中から最適なものを選択することができる」ことになります。

 

これで「考える」における「人間らしい」がよく分かりました。

「人間らしい」の後には「生活」だったり「人生」だったり、色んな言葉が続きます。その際に「人間らしい」の持つ言葉の意味が変わってきます。いつか他の言葉が続いた時における「人間らしい」について考えてみます。

 

今日はここまで。

 

 

熊本地震を受けて感じたことの言語化を試みる

*この記事は、このブログの主旨にも合わず、文量の割には中身が無いので、暇を持て余す方法が見つからなくなった時か、僕をいじるネタを探す時にだけご覧ください。

 

先日、熊本地震が起きた。阪神淡路大震災とほぼ同程度の震度であり被害は小さくはない。SNSを見ていると多くの友人・知人が大なり小なり被害を受けている。また支援に向かっている人は東日本大震災と比べて多い気がする。その様子を見ていると、様々な感覚が沸き起こる。それらの感覚のうち、今、言葉にできるのは、使命感・罪悪感・違和感の3つ。今まで、このように天災が起きた時は、自分の先に挙げたような感覚に目を向けていなかった。息苦しさを感じたからだ。しかし、日本に住むのであれば、これからもずっと天災が起きることと向き合わなければならない。もしかしたら、地球温暖化の影響で、今後は、もっと頻度が多くなることだって考えられる。だから、天災が起きた時にどういった「考え」を持っておくかは大切なことだと思う。

とりあえず、先に挙げた3つの感覚を言葉にしてみる。そうしたら、今、自分が「何を考えて、何をすべきか」が見えてくるような気がする。

 

[使命感]

「困っている人が目の前にいたら助けなければならない。」

どこかで誰かから教わった倫理観に当てはまる。特に今回は、隣に位置する熊本県での震災だ。だから「対岸の火事」と言う訳にはいかない。その気になれば支援にも行ける場所だ。また、熊本県には観光で幾度も訪問させてもらっていて、恩義も少なからず感じている。恩返しをしなければという気持ちも若干ある。

 

[罪悪感]

「義を見てせざるは勇無きなり」

色んな理由を並べて、やるべきことをやっていない自分に浅ましさを感じる。

 

主な理由は以下の3つ。

・熊本に行って支援できる程、お金or時間or精神的に余裕が無い

・沈黙は金なり

 人の目が大きな意味合いを持つ日本の文化では、目立つようなことをするのは避けた 方が良い。意図しないで変なラベルを貼られてしまうかもしれない。また、間違った ことをしてバッシングを喰らうこともない。

・自分の行く必要が感じられない

 他の人が行っているので自分は行く必要がない。

 

腹の底では「だるい」 という気持ちがあるかもしれないが、それは、今の所、ワカラナイ。

 

[違和感]

疑謀は成すなかれ」

これは、「自分がこれから行うつもりのことに少しでも疑いがあれば、止めるべき。疑念や不安は心の毒薬のように自信を揺るがし断行力を削ぐ。確信をもって行動すためには、まずは、核心に触れるまで努力しなければならない。」という意味を持つ言葉。この論理が最も行動を妨げている。違和感を抱いているのは以下の4つ。

 

○「『ボランティア活動』をすることになってしまう違和感?というよりイヤ感」

自分が仮に支援活動をすると、それは社会からは「ボランティア活動」と定義される可能性がある。「ボランティア活動」はかなり賛否両論を生むテーマ。少なからず否定的に見られる。それがイヤなようだ。否定的な意見としては以下。

 

・ボランティア活動の内容は、本来行政が行なうべきことであるはずだが、経費削減のため、行政がボランティア活動の枠をわざわざ用意している。

・募金の使い道が悪質。募金をするのだったらその時間はバイトした方がコスパは良い。

・素人が非常に限られた資金の中で行なうとかえって迷惑。 etc

詳細は他の意見は以下を参照

ボランティア活動は公益になるか | 永井俊哉ドットコム

 

上記の問題点に気がついているならば、正しく工夫をすれば良いだけの話である。言葉に踊らされている所は少なからずある。

 

○わざわざ自分が危険な目に合う必要性があるのか

支援に行った時に地震が起きて自分が被害者になるかもしれない。原爆でいう二次被爆者のように。専門的に訓練を受けている者に任せるべきである。

 

○下心感

恩を売っているような気がする。自己満足でやっているかのような気がする。 

明確に言語化してくれている知恵袋は以下

東日本大震災の被災者支援でなんとなく違和感を感じるのですが・・・ ... - Yahoo!知恵袋

 

 

以上が自分のモヤモヤとしたものを言葉にしてみた結果、言葉にしてみて自分の感覚を構成している色んな正義感や浅ましさや感情や理屈に驚いた。こうして、きちんと言語的に「自分を知る」ことは大切だと感じた。得体の知れないモヤモヤに悩まされて、断行力が削がれることがないからだ。

 

また、上の作業を行う過程で、色々調べていると以下の2つのサイトを発見した。

熊本地震:ボランティア・物資、焦らないで - 毎日新聞

熊本で発生した地震のボランティアをすることは可能なのか?

 

端的に言えば、「今は、ボランティアは必要ない」とのことだ。逆に今行けば迷惑になる可能性が高い。これで、今回抱いた「なるはやで熊本地震に支援をしなければ」という気持ちは無くなった。

 

今回、この作業をやってみて、大きな天災が起きたときは、

「落ち着いて、まず自分と向き合って、次に震災の状況をきちんと調べて、最後に考える」

ことが必要だと思った。孫氏の兵法でいう

「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」といった所ですかね。

 

今度、気が向いた時に続編で「もしボランティアが必要である、ということだったら、どう考えるのか」ということを考えてみたいと思います。

 

疲れた。今日はここまで。