自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

すとらテラ処方録 20 長崎へ

1月6日 薬飲み忘れ,イベント参加

◯ 薬を飲み忘れたせかいか10時間ほど寝た。すぐにイベントがあったので、毎日の習慣をする暇もなく外へ出た。電車の中ではtwitterし、七草を摘んで、書き初めをした。七草を探すのがめちゃ苦手で、やはりもの探し系のIQの低さを感じた。書き初めはほどよく調子にのった。終わって帰る時、とてつもない睡魔に襲われて、なにもできなかった。家についたら、料理や家の家賃のことなどしていたら、1日が終わった。

△ 寝すぎると、眠気が。眠気は睡眠時間の如何によらずあるかもね。

 

 1月7日 twitterに夢中で何もできず

◯ 早起きはできた。twitterばかりで他の記憶があまりない。晴れていたにも関わらず、やる気が家ででなかったので、学校に行ったが、学校でもイマイチ。結局家に帰って、唯一のレポートをメールで送信。その後、論考してブログにコメントして早めに寝た。

△ 以前、twitterを開かなかったらとても充実した日を送れた。集中する時は、誘惑をシャットダウンする。

 

1月8日 もがいた日

◯ 早起きし,男女差別について考えた。途中で寝て頭が痛くなった。家の中だと何もできなかったから、学校に行った。学校でも何もできなかったから、家に帰った。その間やったことは、、、、ネットサーフィンくらい。家に帰って、年金関係をやろうとしたり、HITの連絡をしたり、光熱費をやろうとしたり、新しい家の家賃を計算したり、よくやった。そしてすぐ寝た。

△ 最近は、メタ視点の多幸感が弱まっている。単純に世俗の次元で暮らしてる。初心を思い出す。波を作っていく。本気でやらない。負荷を一定に。それであれば、毎日1つ達成できればOkayくらいに構えておく。自分基準に。そうして、毎日の蓄積の上に自分がいる。ゆえに今の自分が一番素晴らしい。うまくいかない時が合っても、それで経験値が溜まっている。ありのままを認めつつ、ありたいように生きる。そうした矛盾を味わい楽しむ。工夫をこらして、自分をコントロール。適切なタイミングで座禅、腹式呼吸。外で仕事。歩いて仕事。自分の気分をコントロールできるお約束ごとをかましてく一番のストレスから逃げられる方法はストレスに向かうこと。終われる前に追って潰す。素敵な時は主観的に、辛い時は客観的に。やっていきましょう。

すとらテラ処方録 19 自宅に帰る

12月30日 自宅に帰る

◯ 早くに起床。反省やtwitter。そのあと研究。父に手伝ってもらいながら、研究を進める。致命的なミスを発見しモチベdown。それからtwitterに没頭。ほとんどのSNSで過ごし、夕食の前後からまた研究をスタート。父に手伝ってもらって少し進んだ。研究が嫌すぎて少し頭痛がしたので9時半にベット。火照った気持ちが収まらず結局1時前に就寝。

△ 慣れない環境、慣れないリズム、慣れない圧力で、ストレスを感じず、理性的に生きる精神機能がぶっ壊れた。「今が最上に素晴らしい」の精神を保ちつつ、次元が一つの上の工夫の工夫と反省の反省を意識しながら、歴史に担保された小さな波の中で生きることができなくなった。まずはこの初心に還り、今の生活に合うようにデザインをし直したい。やはり自分のみでは研究はできないことが機能でわかったで、積極的に頼ろうかと思おう。ただし、頼りからには、自分もよそ見をしないで誠実にやってこうと思う。できる限り、部屋に閉じこもるのではなく、リビングでやっていこうと考えている。せっかく利用するように言われているのだから、思い切って利用する。

 

12月31日 よくやった日

◯  早起きし、三つの習慣。その後、ほとんどの時間をパソコンの前で、研究に費やす。よくやったよ。俺。少し、外に散歩しに行って、久々あう友人に「おおきくなったね」と訳のわからない挨拶をして、夜は語って、護身術教えて、寝た。

△  真剣に誠実に仕事に向かえばより効率的に効果的になる。工夫がたくさん生まれるし、全体像の把握もできる。父を見れば明らか。まるで他人にアドバイスをしてあげるがことく、やっていく。自分のやりたくないことは、自分を滅するのがいい。自分がやっているのではなく、自分を操って、手伝ってあげるような、やってあげるような、せっかくやってあげるからには誠実に向き合ってあげるような、そんな気持ちでサクッと終わらせてあげる。Okay? 精神次第で変わるのよ。工夫を工夫、反省を反省。より根本まで遡れ。

 

 1月1日 じっちゃんち

◯ 早起きし、習慣done. この日はtwitterに熱狂。癪にさわる件があったが、調子がよさそうだった。気が付いたら、1日が終わっていた。

△ 課題図書について、読み進めることを優先したい。毎日の反省は大切だが、input作業は、この時しかできないので貴重性が高い。

1月2日 実家へ

◯ 早起きし、反省すらかけずに実家へ。しゃべり倒していつの間に到着。ばあちゃんとは今まではまともに話せなかったけれど、今回はちゃんと話すことができた。そしたら、笑ってくれた。なんどもありがとうって言ってた。記憶もいつもよりよかったみたいだ。そのあと、イオンへ。買い物で好きなものかってよい旨を伝えられたが、何も希望をしなかった。帰って、twitterに熱がこもる。交感神経が活性化し続けた日だった。寝る時間は12時過ぎ。

△ 朝の習慣をしなかったのは痛かった。歯磨きをするレベルまでに「落ち着かなくなる」ほどに持っていく。twitterも熱が入りすぎた時は、座禅をするとよい。熱狂=正常ではない感情、なので、いかにそのことがよさそうに見えてもあえて水を差す。それは習慣にしたい

1月3日 実家へ

◯ 写経をする暇なく実家へ。ずっとしゃべり倒した。交感神経優位で狂になっていたので、一度座禅を組めばよかった。帰って、明日の買い物をしに行って、twitter。夜の最後は頭が働かずちょっと密度が小さめ。相当アゲアゲな日だった。

△ 話しすぎと言われた。確かに、今日は妹が喋る隙がなかったのかもしれない。聞いてる側のことも考えてなかった。自分と他人は違うこと。よく相手のことを考えて喋るようにしよう。真理と相手を突き詰める。

1月4日 お泊まり

◯ 早起きして、飯作って、民宿へ。飯の準備の前に頭を動かしすぎたせいか、疲れてた。その上で、親から叱られてめっちゃストレスを抱えた。んで頭が働かなくなって、怒られながら料理を作って、向こうに行って、はしゃいで、のんで、寝た。

△ 準備不足だった。妹を信用しすぎたし、結果に誠実ではなかった。企画はその時の自分の魂が宿るようにつくる。できなかったわけは全ていいわけ。心づもりは全て自分ひとりでやるつもり、表に出すのは最良の関係を築くのに必要最低限のことだけ。

 

1月5日

 ◯ 民宿で早起き5時。goodだけど薬がないせいもあるのか、途中から疲れてきた。とにかく話しまくって、家に帰って、花を買いに行って、渡して、長崎へ。到着後、SPIを手伝ったが、脳が働いてなさすぎて、なにも貢献できず。そんで10時過ぎに寝た。

△ 脳が働いていない時は、どうすればいいのか脳が働いていないのに考えることがそもそもできないので、仮眠か瞑想をルーティン化しようと思う。また、その後、ぐるりと回るので、ゆっくりでもいいから建設的に考えられるように、見える化しようと思う。

 

人間の学としての倫理学 まとめ

 

 倫理学とは何か、についてまずは考える。倫理という言葉はシナ人が作った言葉であるから、シナ語を考えると倫理という意味がわかってくる。「倫」というシナ語は元来「なかま」を意味する。「理」は「ことわり」であり「すじ道」である。人間の生活に関係するものとしての理は、人間の道である。こういったことから、「倫理」とは「人間共同体の存在の根底に横たわる道義」を意味すると言える。倫理が以上のような意味ならば、この倫理を問う「倫理学」は「人間の共同体の根底に横たわる秩序・道理を明らかにしようとする学問」である。

 では、人間とはなんだろうか。人間は「人」に「間」と書く。日本初の近代的国語辞典「言海」によれば、人間は本来「世の中」「世間」を意味し、「俗に謝って人の意になった」とのことである。誤解が起こるということは、「世の中」は単に「人」と解釈することができたことを実証している。こういったことから、人間とは、全体である「世の中」と部分である「人」の止揚によって統一された言葉であると解釈できる。

 では「世の中」或いは「世間」とは何であろうか。世間という言葉を日本にもたらしたのは漢訳経典である。世間は仏教的な哲学が込められた言葉であり、この哲学の根本命題は「世間無常」である。この世間の概念はシナの仏教学者によって、「世」は「遷流」、平たく言うと、「移り変わるもの」であると解釈されている。しかし、ただ移り変わるものであれば、一つの世であることができないので、和辻は、それに対治することで本質が保たれる必要を主張し、さらに対治によって遷流のないものが現れたのであれば、それはもはや「遷流」を意味する世間でもなくなるので、こういったことから世が破壊性・対治性・覆真性のある言葉であり、また定義をすれば永遠に自己否定が行われるような言葉としている。

 また、世間と訳せられた言語のlokaは本来「遷流」の意味より「場所」の意味を持った語であること、仏教の「世」が「苦」である前提を考えた時、自然現象の時間的な推移は苦ではなく人間関係において苦が生まれること、といったことから、空間的な、場所的な意味が主としてあることがわかる。ここから、世は人間の共同体の意味があるように考えられる。

 次に、「間」及び「中」という言葉も、男女の間、間を隔てる、仲違い等の用法を見るに、人間関係も意味することがわかる。また、人は行為することなしには「間」「仲」をつくることはできず、またなんらかの間・仲においてでなければ人は行為することはできないので、間柄と行為的連関は同義であることがわかる。ここから、この間・仲は、机の間、水の中といったような静的な空間ではなく、生ける動的な間であり、自由な創造をも意味していることがわかる。ここから、「間」「中」は人間の共同体であることが導ける。

 では、世・間・中は現在ではどの言葉にあてがわれているのであろうか。それは「社会」である。実際、日本では「社会」という訳語が用い始められるまでは主に世間・世の中という言葉によって社会を言い表していた。シナにおいては、近思録で郷民為社会等と言われるように、宗教的に結びついた小さい村落共同体が社会と呼ばれた。「社」は元々土の神であり、その祭儀が集団の根底になった。また、この宗教的な意味の他に社会は主として「集団」を意味した。これでは現在使われている社会の時間的・空間的性格には触れていない。しかし、世の中・世間という言葉は、本来の社会の意味を持ちつつ、場所的なもの、絶えず推移するものというものという意味を含んでいる。そして、世の中は行為的な連関として必ず「間」「中」というひろがりを意味するとともに、また同じく行為的な連関であるがゆえに必ず移り変わるものである。従って、人々が社会を世間・世の中として把捉したときには、社会の空間的時間的性格、言い換えると、風土的・歴史的性格をともに把捉していたということができる。

 以上から世間・世の中という言葉の意味は、人間存在の歴史的・風土的・社会的性格を捉えたものとして十分尊重に価することがわかる。世間・世の中とは、遷流性及び場所性を性格とする人の社会であり、歴史的・風土的・社会的な人間存在である。

 人間の概念を世の中自身であるとともにまた世の中における人であると規定し、この人間の側面を「人間の世間性」と表現し、他の側面を「人間の個人性」と呼ぶことした場合、人間存在とはこの両性格の統一であると言える。これは行為的連関として共同体でありつつ、しかもその行為的連関が個人の行為として行われる。これが、人間存在の構造であり、従ってこの存在の根底には行為的連関の動的統一が存在する。これこそが、倫理の概念において明らかにされた秩序・道である。

 では、倫理は「存在」(Sein)の根底であって「当為」(Sollen)ではないのだろうか。そもそも「存在」とは何であろうか。存在という言葉が現在Seinの同義語として用いられているが、Seinは主辞と賓辞とを結ぶ繋辞であり、実際のところ同義語ではない。S ist Pを「SはPである/なり」と言い現わしているが、SとPを結びつけているのは「である」「なり」等であって「存在」ではない。繋辞としての意味をも含むSeinの訳語としては、「である」「なり」などの根幹である「あり」を選ぶべきであったと和辻は考える。「あり」は繋辞的用法においては「である」「なり」等になり、事実のexistentiaを現わす場合は「がある」「あり」の形をとる。従って、繋辞的Seinを問題とすることは「である」を問題とすることであり、思惟に対立するSeinを問題とすることは「がある」を問題とすることである。論理学は「である」を取り扱い、オントロギーは「がある」を取り扱い、両者は根源的な「あり」にもとづいている。したがって、この根源的な「あり」を取り扱う基礎的オントロギーがなくてはいけない。

 ところで、我々が「がある」に当てている漢語は「有」である。元来シナ語は繋辞のSeinに当たる言葉を持っていない。ここから、オントロギーは有論であると規定する。有について考えると、有には「がある」と同じ強さで「もつこと」を意味することがわかる。ハイデッガーアリストテレスは所有物を現わす語ousiaを保持しており、これには「有る所のもの」という意味もある。ここから有る所のものとは手の前にあって使えるもの、つまりousiaは身近に持ち来たすというような関わりを指し示し、アリストテレスはこの解釈によってousiaやその訳語のessentiaを交渉的存在の中へ連れ込む。また、あらゆる有つは人間によってであることから、有の根底には必ず人間が見出される。したがって、人間があるのは人間が人間自身を有つからだということがわかる。ここから、人間が己自身を有つことを言い現わす言葉が「存在」だということがわかる。

 「存」という言葉は、「存じております」というごとく、あることを心に保持する意に用いられている。漢詩の存の使い方を幾つか見れば、どうも「存」は単なる「がある」ではなく、自覚的に主体的に有つことであることがわかる。こうみると「存」には己自身の保持の意味があることが一層明白にわかる。これは忘失に対して把持を意味し、亡失に対して生存を意味する。すなわち主体の作用・行為であって、客体があることではない。しかし、主体は己れ自身の把持において対象的なる者を把持するのである。また時間的性格を帯びている。例えば、危急存亡の秋、存命、生存、といった語には時間的意味が含まれている。

 「在」という言葉は古来「にあり」として特徴づけられている。すなわち、ある場所にあることを意味する。この語も主体性を帯びた語である。例えば、主体性のない石を例にあげると、「山にある石」を、「山にいる石」といったように言うことができないことから、主体的場所的な意味を示していることがわかる。また、空間的な場所のみならず社会的な場所も意味している。例えば、在宅、在郷、在世といった語があることから、社会的な場所も意味することがわかる。主体的に行動する者はなんらかの人間関係においてあることを示唆し、ここから、自由に去来するとは、このような人間関係の中を自由に去来すること、すなわち実践的交渉を意味することがわかる。この実践的な関わりがなければ誰しも社会的な場所にいることはできない。このようにみれば、在とは人々がそれぞれの社会的な場所に去来しつつあることであり、従って「人間」が己れ自身を有つことである。

 したがって「存」はその根源的な意味においては主体の自己把持であり、「在」は根源的にその主体が実践的交渉においてあることを意味するとすれば、「存在」が間柄としての主体の自己把持、すなわち人間が己れ自身を有つことの意味であることは明らかになる。存が自覚的に有つことであり、在が社会的な場所であることを結合すれば、存在とは「自覚的に世の中にあること」に他ならない。しかし、その世の中にあることがただ実践的交渉においてのみ可能である点を強調すれば、存在とは「人間の行為的連関」であるとも言わなくてはならなくなる。これが、我々の存在の概念である。

 以上から、倫理学は人間存在の学であらねばならないことがわかる。こうした時、この人間存在が当為に対するSeinではないことが明らかになる。人間存在は人間の行為的連関であるがゆえに自然必然性において可能な客体のSeinではない。しかし、またそれは人間の行為的連関として、単に主観的な当為の意識というものでもない。人間の世間性と個人性とは人間の行為を共同的であるとともに個人的であらしめる。個人の行為が単に個人的主観的であるのみならず超個人的な根底を持つことを意味するとともに、また共同体の行為が単に超個人的であるのみならず必ず個人の行為として表現されることを意味する。ゆえに、我々はSeinとSollenのいずれも人間存在から導き出せるものとして取り扱えると考える。人間存在は両者の実践的な根源である。だから人間存在の根本的な解明は、一面において客体的なSeinがいかに成立したかの問題に答える地盤を、他面においてSollenの意識がいかにして成立するかに答える地盤を提供する。前者は「有の系譜」をたどることによって答えられ、後者は人間存在の構造がいかに自覚されるかをたどることによって答えられる。人間存在の学はこの二つの方向に対していずれも十分な地盤を与えなければならない。

 したがって、人間存在の学は人間存在を全て観念的なものの地盤とともにまた自然的な有の地盤としても把捉しなければならない。このような存在において人間は、個として現れつつ全体を実現する。個であることを通じて全となるという運動においてまさに存在なのであるから、この運動の生起する地盤は絶対空である。すなわち絶対的否定である。絶対的否定が己を否定して個となり、さらに個を否定して全体に還るという運動そのものが、人間の主体的な存在である。全ての人間の共同体を可能にしているのはこの運動であり、またそれは、一般に間柄をつくるためのふるまい方として、行為的連関そのものを貫いている。ゆえに、人間存在のなかにはすでに倫理があり、人間共同体の中にはすでに倫理が実現されている。だからこそ、「倫理」の学は同時に「人間存在」の学ではなくてはならない。また、この人間の学は、一面においては人間の自覚でもある。人間が存在的に実現するものをここでは反省意識において反復する。従って倫理学は人間の自覚の体系化であると言える。

すとらテラ処方録 18 帰って修論への危機意識

 12月23日 少しの休み

◯ あまり何をしたのか覚えていない。遅めに起きて、部屋を綺麗にして、親と連絡して、心を整えて、あらおに住む所の連絡をして、気が付いたら時間に。最後の夜はツイッターをしたら10時睡眠の予定が、12:30に。ツイッターに2時間はゆうにかかるようだ。

ツイッターの時間は自分の時間で裕福に過ごしたいが少し控えた方が良さそう。早くやっつけて、HITや他の毎日に集中したい。

 

12月24日 よくやれた日

◯ 朝は早く起きれないが習慣をバッチシこなした。長時間twitterを復活したのち、すぐ外で読書。15時から日が暮れるまで。帰って、少し読書をした後、クリスマスプチパーティをして映画。誘惑に負けざるを得ない環境であった。映画については、みなくてもよかったので少し反省。

△ 日々淡々と生活すること。焦りや不安は集中ができなくなる。理路整然とやればよし。twitterより本や論文から学べることをつぶやくようにする。まず、朝起きてすぐに本を読むようにする。思索の時間を本に置き換える。

 

12月25日 よくやれた日

◯ はよ起きて、三つやって、早速朝から読書。病院に遅れて行って、遅れてUSB送って、また読書。日が沈んで、学校で少しツイッターいて、家に帰ったら料理やらして睡眠。日が沈んだらすぐ寝る。は結構良かった。

 

△ 日が沈んでからすぐ寝るをもっと実践したい。10時には寝ることができればもっと生産的になれるだろうに。昨日の調子である。呼吸を整えて、精神を整えれば、もう少し読書に集中できるかもしれない。

 

12月26日誘惑に負けた日

◯ 早起きして、3つして、課題しっかり。まとめたり読み終えたりして、いざ書く作業に入ろうとするが、意気込んでいたが、なかなか進まず。そんな時隣でスマブラ。やっちまった。結局15時から23時あたりまで8時間ほどゲーム。

△ ゲーム中毒の教訓は中毒性あるものは一度やって、「もう一回」を唱えたら一日が確実に終わること。そんな時「自分はやめられる」神話を捨てなければいけない。明日立て直す。

 

12月27日 レポートを進めた日 うまく調整できた日

◯ 寝るのが遅かったため起きるのは少し遅め。昨日に後悔をしながらも、朝があまりにも気持ちがいいのと、昨日のテンションがかなり高かったので、どうしてもやる気が起こらず。そこで、学校にいこうと立ち上がった時に、天気が良いことやパソコン作業が必要なこと、電波が必要なことなど諸々の条件を考えて外で作業をすることに。日光の位置が変わるまで外で集中。その後、部屋に入っても集中。西部さんの番組が始まるまでは一気にやれた。番組が始まってからテレビの調整をしたがうまくできず。何度も焦って同じことを繰り返したのはADHDみが高かった。食事をつくって寝る時間に。あと、カウンセリング行き忘れた。

△ 天気が良すぎること、そして前日にテンションをあげすぎると、影響がでることがわかった。天気が良すぎる場合は、日光浴をしてしまうので、読書といった落ち着く作用のないものに限っては、外でやるのがいいみたい。一度、変化を与えてあげることで、思考に磨きがかかる。切り替えができて報酬系が正常に近くなる。

 

12月28日 レポート終了。研究開始

◯ 早起きはできず。雪降る寒さに二度寝。からの、朝からレポートを雑に書き上げた。明日に実家に帰らねばいけないことを知り、すぐさま実験。ただ、途中で実家に帰らねばいけないこともないことに気がつき、少しの堕落。だがすぐに持ち直した。GMXのまとめを終えたら、だるくなったので、ここが良い工夫!持ち帰るデータのまとめを行った。さらに良い工夫!家に帰って時間が余ったので小説を読んだ。カウンセリングへの電話は忘れたが、それ以上によい工夫のできた日であった。あと、薬ももらいにいけた。

△ 「勘違いを生かす」というのも意識するといいかもしれない。実家に帰るdeadラインを聞くのは明日でもよかった。あえて勘違いし、早めに終わらせるのは手。今後、実質どうなのか、を聞くのは習慣的にするのではなく、今をいかに生かせるかという思考をいれてからするようにしよう。

 

12月29日 実家へ。落合さんに夢中

◯ 早起き。いつも習慣を完了。ツイッターに夢中の日21ツイもしていた。その中で落合さんの過去を遡って、いろいろ得るものがあった。あの人ですら努力の人。狂気になるために狂気になっていた。体をめちゃめちゃにぶちこわしながら、少しずつ慣れていった。まさに修行僧。自分も人生のあらゆることを放り投げて本当にやれば、あそこまでいけるに違いない。しかし、その勇気があるだろうか。これまでは甘っちょろい利己的な信念が動力源になっていたが、今は大きな日本や先人や家族に支えられて今の信念がある。今ならキチガイになれそうな気がする。んで17時までやっちゃって、それから研究関係。正直、研究関係は、過去を遡って考えてみても、なんだかんだ間に合う気しかしなかったので、やる気でないのは必然。実家に帰って慎み深く親を利用させていただき、できるところまでやってしまおうと思う。朝、やるべきことをワードにまとめ、18時頃に再度持って帰るものを確認したのはファインプレー。何度も肝は確認すべきである。なぜなら、中高のテストの見直しのごとく、必ず漏れ抜けがあるから。んで、バスで家に帰って談話して一日が終わり。親の前で孝の精神を保てた。

△ やはり一人になると生活が荒れる。これを確認した。また、家に帰ると、引越し費用を出さないと言われた。これは俺をバイトさせるための言葉なんだろうか。自分が、日々を有意義に使っていることを親にそれとなく感じてもらう。毎日の背中が孝行になる。リラックスしながら、しっかり期待に応える。今は、自分ではなく親の子。親の子としての本質的な生活を送ること。 

すとらテラ処方録 17 東京へ 大変

 

 12月18日  ADHDみが深い日だった

◯ 荷物整理に手間がかかったが、喋りながらすることでなんかパックができた。諸々の書類のコピーが間に合わなかった。できたはずなのに気が散ってしまった。。。福岡についてバスを乗り間違った。が、間に合った。夕食を買いにいくつもり、が、一報もいれず食べて戻って来た。SSSでは最初に少ししゃべりすぎた。携帯をしている時に、遠回しの注意として、問いをかけられたが、もっとうまくやるべきだった。途中、個人の成長目標、SSSとしての貢献内容、を諸々の諸条件を考慮して考えることができたのはよかった。最後の自由トークの時、支離滅裂なことを喋って、焦って、余計に支離滅裂度が増した。

△ 準備が足りなかった。大事なのは1ににも2にも「余裕」。余裕がないと頭が悪くなる。「余裕」は必ずもって生活をするように心がけよう。

 

12月19日 ADHDみが極大までになった。

◯ 3時間睡眠で7時に起床。4時まで語っていた。意識が朦朧としながら毎日の習慣を10時まで。寝ればよかった。駅をウロウロしたのちにランチ。おごってもらうことを全く意識せずに高いものを頼んでしまったのは反省。お別れして空港へ。空港で、再三「大丈夫」といっていた航空機の時間が大丈夫ではなかったことに気がついた。夜9時かと思っていたら朝9時だった。そして20:15発の航空機を借りたが、9時発かと勘違いをまたしてしまって、乗り過ごした。最後、10時あたりに出発の便を予約して、ようやく旅立つことができた。

△ 昨日と一昨日は何があったのか。一昨日から振り返ると、とにかく全体を把握し、解像度高く自分とその周りを見ることができていなかった。焦っていたからだ。1日の中でやることを詰めすぎた。前もってやっておくべきことがあったが、それを考えついたのが前日の夜であった。「今ここ」に生きるのは大切だが、大事な案件がある時は、前もって一度、自分の未来の生き方を具体的に想像しておく必要がある。まるでイベントをするが如く。少し前だったらやることリストをみて、確認ができたのだが、やることリストがやる気を損なう、といった心理学の見地を知ってから、あまりみなくなった。そういったことを知ると自然に行動に影響が出てしまう。知ったことは、必ず自分の生活に少なからずとも影響を与える。たくさん知るのではなく、少なく深く知るように心がけたい。きちんと自分の生活に合うようにカスタマイズするためにも、自分の言葉で解釈をしてあげて、自分と調和させる。もし、こうしておけば、前日にタスクを詰めて焦らなかったのかもしれない。ただ、後回し癖のある自分は、まだ可能性がある。1日のうちに詰めてしまた時、考えておくとよかったのが、果たして本当に、それは今日すぐにしなければならないことだったのか、という点。印刷に関しては、東京に行ってからでも十分であった。タスクをあげる時は、これも必ず重要性のダイナミズム、その需要性は「効率」から構成されているのか「責任」から構成されているのか、ここを見極めないといけない。どうも自分は「効率」の比率が高く、それぞれを並列で並べてしまっているところもあるので、重要性を見誤った。タスクをやっている時、途中でそれに気がついたのはよかった。ただ、3日前に松本さんに早退の連絡を取ろうとしたが、その必要がないことに気がついて、連絡を取らなかったのは不思議である。確かに、自分の勘違いではないかと疑った。PMの意味を調べもした。そうしてやっと腑に落ちての判断だった。なぜ間違ったのか、、、これは、時折訪れる、「不可解な勘違い」である。これはどうしようもない。「不可解な勘違い」が起きないためには、常に心穏やかに懇ろに日々を送っておく必要がある。サラッと理解しようとすることがいけないのだ。最近、調子が良くなっていったこと、卒業が不安になってきたこと、この二つが焦りを生んでいたのだと思う。気持ちと時間に余裕をもって生活をしたい。

また、やはり違和感を必ず言語化する習慣をつけることである。わからないことは調べる。気になったことは調べる。常に、違和感を明らかにすることをやっていく。そうすることで、この「不可解な勘違い」の頻度を減らせる。大切なのは、この件や他の件を特に驕りたかぶった時に想い出すことで、自分はものを買えなくなるほどに知能が衰えることがあるということを自覚し続けておくことである。得意な部分もあれば苦手な部分も多分にある。そこにちゃんと目を向けておく必要がある。慎重に、慎重に、慎重に、人は簡単に進化しない。歴史に学ばないのが歴史の教訓である。自分も然り。自分の失敗に学ばないのが失敗の教訓である。そういう自分の至らなさを必ず忘れることのないようにしたい。

 

12月20日 研修前の調整で忙しく

◯ 早起きし、空港で習慣と研修のための調整。少し楽をしよう、頑張ったフリをしよう、といった邪心があったので、あまり進まなかった。移動後神社でパワポ。本当は、写真を撮ってもらうところをその時間に選ぶべきであった。未来を解像度高く想像することに欠けていたいこと、あるいは、そのタスクは一度考えついていたものなので、先輩たちに誠実あれば、思いついたはずであった。にもかかわらず、忘れ、さらには、いざ写真を撮ってもらおうとするとき、場所について云々言われたときに、自分は場所を探したんだが、見つからなかった風な口を聞いてしまった。嘘だ。嘘をついていけないタイミングで嘘を保身のためについた。よくない。写真を撮り終わった後、頭が十分に回せない感じで会議に参加し、飯をたべてしんちゃん宅へ。飯のときのシェアハウスの話は誠実に言葉を選べてなかったな。しんちゃん宅で、遅いタイミングで、会場に機材の確認と大嶋さんへの相談の連絡を取った。しんちゃんに言われてから。面倒なことから避けていた。一番大切なのに。。。これは、毎日の自分のどこかと同じようだ。卒論とかだ。よく頑張った日だが、よく考えることが、よく気を回すことができず、反省の多い実りある日だった。

△ 定期的にフッと自分に還る時間をやはり設ける必要がある。90分の原則を打ち立て、あるものに熱中する時間は90分までと決める。90分経てば、1分我に還るようにする。

スピードより丁寧さを心がける。誠意ある言動を常に意識する。

 

12月21日 忘年会本番

◯ 全体的によう頑張った。朝早くからラップを覚えたのは良い意識。ただ、気持ち、精神のリンクへの意識が弱く、記憶に時間がかかった。不測の事態にも適切に対応できた。本番の力の出し方は今までで最高である。しかし、次はもっとできる。ラップも時間が限られている中で復習した。本番では所々ミス。ミスした時に、素直にカンペをみればよかった。相手の視点からすれば、俺のことはみられていない。がっつり直前に覚えればよかった。終わったあと、少し引きずって会に集中できなかった。一つ音楽を流すタイミングを逃して、それから我に返った。終わったあと、すぐに空港にいかないといけないことに気がつき、二次会に参加せず出発

△ 直前は焦る。だからハプニングもよく起きる。今回は、自分ができるだけやりすぎないように、という意識で途中からペースを落とした。最後は、自分がやってのけようと思っていたが、携帯や動画のハプニングで追い上げることができなかった。焦り始める原因は締め切りにあるのではなく自分にあるとわかった。

 

12月22日 帰崎

◯ 座禅以外は完了。眠気が凄まじい。慣れない環境で寝にくい形で寝ると、十分にねれない。なんとか眠気に耐えながら家に到着。家でもうたた寝をしたが、なんとかラップの動画をほぼ完成までに。帰って一呼吸おいたが、少しの時間だけだった。追いこんでいたけど、精神的にそれがあったのであまりよくない。慌ただしい日で、あまり心地よくはない。あと、ソフトバンクショップに行ったのはgoodな判断。

△ 頭も働かない中、よくやった方だと思う。こういう時は、よく寝て、落ち着くに限る。家に帰って座禅をすればよかった。何事も余裕が大事。近くにパソコンを安く買える機会がある。これは、買っておきたい。携帯もYモバイルになっているので、なるはやで変えなければいけない。会社関係もなるはやだ。

 

すとらテラ処方録 16 復活

 12月14日 頭痛が。仕方ない日。

◯ 5時に起きていつもの習慣。その後、色々思考し、眠くなって睡眠。11時くらいにおきて頭痛。自分に課した本を2冊読み、課題図書に取り組もうとしたが疲弊。学校へ行って、予約や印刷をしようとしたが、振込用紙がないことやwebの不具合によってできず。いろいろな不運が重なったこともあって気分がちょいダウン。会社のことを中途半端に気にかけた。妥協もあるが殆どが敢えて。引っ張りすぎないように。その後、携帯でゲーム実況をぼんやり見て、飯作って、10時には睡眠。ツイッターを見ないようにしたのは偉かった。

△ 課題図書に取り組まないといけないが、その前のこだわりの時間で疲労して後回しになる。毎回。だが、小説は特に読まないとやってけないので、やる。あと、課題図書の価値を見誤っていて、松岡正剛も絶賛するほどの著者である。しかと読もう。頭痛が主要因だったが、今日はできるんじゃなかろうか。4時に起きたのだから。  

 

12月15日 よく課題図書に取り組めた。

◯ 早起きした。三種完璧にこなした。ツイッターとエアコンの掃除をしたのち、学校で読書。帰ってからも読書。つかれて12時に寝た。

△ 外で読書をしたり、家で環境を整えて、やったり最大限の工夫を施してよかった。あとは、朝の時間に余計な情報に触れすぎないこと。本を目の前に三分間眺めたり、座禅をしたり、不快感なく、課題図書に取り組めるようにしたい。

 

12月16日 誠実に暮らせた。forestを利用して、気は向かないなりに密度が濃い1日だった。

◯ 早起きした。途中寝たが、朝昼は読書。昼に師に連絡できたのは大きかった。自分の誠意に素直になれた。これが大きい。不安は、よく長期的に、根本的に、多角的に、観察して、明らかにしないとね。今回の所有権移行だって、2月からの方がお金もたまってよかったじゃん。15時あたりから、会社のことで時間を。時間が過ぎるのが早い。

△ 単純労働作業は俺でなくてもできるので負荷平準化のために、まずは割り振る意識が秘帖。しかし、結果的に俺がしてよかった。ただ、みんあで作り上げた感はまだ。。毎日すこしでも化大図書を読み進めるようにしたい。

 

12月17日 よくやった日だったが、衝動に負けたところもある。けどよくやった。

◯ 早起きからの三種終了。twitterはほどほどに課題の読書。楽天の振込。やることの順番整理、確認。カウンセリングと研究室で予約。友人とおしゃべり。後輩との連絡。宇井純にはまって気がついたら寝る時間。

宇井純にはまったのは仕方がない。けれど、それはtwitterをしたから。本を読んで学ぶこともたくさんある。というか、本を学んだ方が学ぶことは多い。衝動的には自分の経験からの言葉を紡いで自分を知りたくなるが、それはいつでもできるので、自分のためにも本を読みましょう。そして、工夫のための工夫。反省の反省を忘れないように。

 

ストラテラ処方録 15 記録すらできなくなり始めた

12月3日〜7日 日記すらままならないほどの期間 11月9日にまとめて書いた。

12月3日 カウンセリング。少し落ちてきたとの旨を話した。

12月4日少しの違和感。気分が乗らなかったので映画を観に行った。

12月5日少しの違和感。勉強会をうまくやれた。

12月6日少しの違和感。動画の指示に時間をかけた。無意識にかみ始めた。

12月7日 初心に帰る旨のツイートをしたことで初心に帰ることができた。そのおかげもあって研究が進んだ。その後、映画を観に行った。

12月8日 久々の日記

◯ 早起きを失敗。米国についての調べ物をしてスッキリ。その後、シンゴジラを二度見ておわり

△ ひさびさの日記がかけたことにまず褒めたい。んで、負荷量の調整もいい感じ。急落はせずゆるやかに下げていっている。昨日の初心にかえろうとするツイートが聞いた。本質を保つために形式にとらわれないことを意識したら楽になった。

 12月9日 日記がかけるくらいまともになった日

◯ 早起き。日記、書写、座禅を行い、課題図書を手段として読書。その後、心理学の本を読んで、自分の変え方を学び、最後は政治の考え方について学ぼうとしたら時間に。よくやった。

△ ここはできなかったことを書くというより、こうしたらもっと効果的だった、とかそういうことを書くようにするのが良いのかもしれない。根本に下っていこう。

 12月10日 本を読もうとする動機が生まれた

◯ 早起き。日記、書写、座禅実施。実験、噛み切った。課題図書読めた。朝は確か二度寝した気がする。あまり覚えてない。夜は図書を読むつもり満々だったが別の関心ごとに気を取られて時間が終わってしまった。

△ 課題図書に集中するために自分の目に触れるメディアを減らした方がいいのかもしれない。

12月11日 遅くに起きて、疲れた

◯ 寒いせいか遅め。いろいろ考えてカウンセリング。そのあと、研究室にいって、パソコンのデータチェックして、youtubeみてだらり。いろいろ考えて、料理したらいつのまに。

△ 今調子いいと調子乗った。予言してたけど、本当にそう思えていなかった。まだ、波の下層部だから、毎日、日記さえかければ褒めてあげられる。あと、自分がどれほど噛んでいるかをチェックしておきたい

12月12日 

◯ 早起きできず。書写以外完了。ツイッターに縛られまいと思いながら縛られた。もうツイッターのTLみないようにする。会社の報告文章を作り終えて、HIT。その後会社して最後の書写。

△ 反省の仕方や工夫の仕方を反省したり工夫したりする意識が必要で、それは自分の力以外にも他の学術的な何かに則ってやってみてもいいかもしれない。何度もそれができていなければ、反省や工夫の考え方に問題があるということ。そこをよく勇気をもって考えてみたい。

12月13日 よく頑張った日。けど、課題できなかった涙

◯ 朝は思わずツイッター見てしまって時間を費やした。でもすぐに会社のことに。そればかりで終日終わった。他のことに逸れることはあまりなかった。よく頑張れた。

二度寝して早起きはできず。この時期は難しい。工夫の仕方を工夫しないとと考えた結果、ツイッターみないという意識はできたが、それを物理的に制約しようという所までは考えなかった。携帯に関しては、forestでなんとかなるが、パソコンについては、タブで開いたら呟いた後、逐一消すように習慣づける。目に入るからそちらに行くのだ。