自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

熊本地震を受けて感じたことの言語化を試みる

*この記事は、このブログの主旨にも合わず、文量の割には中身が無いので、暇を持て余す方法が見つからなくなった時か、僕をいじるネタを探す時にだけご覧ください。

 

先日、熊本地震が起きた。阪神淡路大震災とほぼ同程度の震度であり被害は小さくはない。SNSを見ていると多くの友人・知人が大なり小なり被害を受けている。また支援に向かっている人は東日本大震災と比べて多い気がする。その様子を見ていると、様々な感覚が沸き起こる。それらの感覚のうち、今、言葉にできるのは、使命感・罪悪感・違和感の3つ。今まで、このように天災が起きた時は、自分の先に挙げたような感覚に目を向けていなかった。息苦しさを感じたからだ。しかし、日本に住むのであれば、これからもずっと天災が起きることと向き合わなければならない。もしかしたら、地球温暖化の影響で、今後は、もっと頻度が多くなることだって考えられる。だから、天災が起きた時にどういった「考え」を持っておくかは大切なことだと思う。

とりあえず、先に挙げた3つの感覚を言葉にしてみる。そうしたら、今、自分が「何を考えて、何をすべきか」が見えてくるような気がする。

 

[使命感]

「困っている人が目の前にいたら助けなければならない。」

どこかで誰かから教わった倫理観に当てはまる。特に今回は、隣に位置する熊本県での震災だ。だから「対岸の火事」と言う訳にはいかない。その気になれば支援にも行ける場所だ。また、熊本県には観光で幾度も訪問させてもらっていて、恩義も少なからず感じている。恩返しをしなければという気持ちも若干ある。

 

[罪悪感]

「義を見てせざるは勇無きなり」

色んな理由を並べて、やるべきことをやっていない自分に浅ましさを感じる。

 

主な理由は以下の3つ。

・熊本に行って支援できる程、お金or時間or精神的に余裕が無い

・沈黙は金なり

 人の目が大きな意味合いを持つ日本の文化では、目立つようなことをするのは避けた 方が良い。意図しないで変なラベルを貼られてしまうかもしれない。また、間違った ことをしてバッシングを喰らうこともない。

・自分の行く必要が感じられない

 他の人が行っているので自分は行く必要がない。

 

腹の底では「だるい」 という気持ちがあるかもしれないが、それは、今の所、ワカラナイ。

 

[違和感]

疑謀は成すなかれ」

これは、「自分がこれから行うつもりのことに少しでも疑いがあれば、止めるべき。疑念や不安は心の毒薬のように自信を揺るがし断行力を削ぐ。確信をもって行動すためには、まずは、核心に触れるまで努力しなければならない。」という意味を持つ言葉。この論理が最も行動を妨げている。違和感を抱いているのは以下の4つ。

 

○「『ボランティア活動』をすることになってしまう違和感?というよりイヤ感」

自分が仮に支援活動をすると、それは社会からは「ボランティア活動」と定義される可能性がある。「ボランティア活動」はかなり賛否両論を生むテーマ。少なからず否定的に見られる。それがイヤなようだ。否定的な意見としては以下。

 

・ボランティア活動の内容は、本来行政が行なうべきことであるはずだが、経費削減のため、行政がボランティア活動の枠をわざわざ用意している。

・募金の使い道が悪質。募金をするのだったらその時間はバイトした方がコスパは良い。

・素人が非常に限られた資金の中で行なうとかえって迷惑。 etc

詳細は他の意見は以下を参照

ボランティア活動は公益になるか | 永井俊哉ドットコム

 

上記の問題点に気がついているならば、正しく工夫をすれば良いだけの話である。言葉に踊らされている所は少なからずある。

 

○わざわざ自分が危険な目に合う必要性があるのか

支援に行った時に地震が起きて自分が被害者になるかもしれない。原爆でいう二次被爆者のように。専門的に訓練を受けている者に任せるべきである。

 

○下心感

恩を売っているような気がする。自己満足でやっているかのような気がする。 

明確に言語化してくれている知恵袋は以下

東日本大震災の被災者支援でなんとなく違和感を感じるのですが・・・ ... - Yahoo!知恵袋

 

 

以上が自分のモヤモヤとしたものを言葉にしてみた結果、言葉にしてみて自分の感覚を構成している色んな正義感や浅ましさや感情や理屈に驚いた。こうして、きちんと言語的に「自分を知る」ことは大切だと感じた。得体の知れないモヤモヤに悩まされて、断行力が削がれることがないからだ。

 

また、上の作業を行う過程で、色々調べていると以下の2つのサイトを発見した。

熊本地震:ボランティア・物資、焦らないで - 毎日新聞

熊本で発生した地震のボランティアをすることは可能なのか?

 

端的に言えば、「今は、ボランティアは必要ない」とのことだ。逆に今行けば迷惑になる可能性が高い。これで、今回抱いた「なるはやで熊本地震に支援をしなければ」という気持ちは無くなった。

 

今回、この作業をやってみて、大きな天災が起きたときは、

「落ち着いて、まず自分と向き合って、次に震災の状況をきちんと調べて、最後に考える」

ことが必要だと思った。孫氏の兵法でいう

「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」といった所ですかね。

 

今度、気が向いた時に続編で「もしボランティアが必要である、ということだったら、どう考えるのか」ということを考えてみたいと思います。

 

疲れた。今日はここまで。