自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

「すべきこと」のうちで、「できること」を、「やりたい」ようにやる奴の就活

「すべきこと」のうちで、「できること」を、「やりたい」ようにやる

という基準で世の中を生きている。

すべきこと、というのはなかなか学生のうちにはわからない。例えば「ちがい」を認めすぎれば「おなじ」がなくなり、度がすぎると秩序を失う。「ちょうどいい」くらいがいいけど、それは何を基準で判断するのか。「過去」だ。「ちょうどいい」は「過去」からしか判断できず、それは自分の経験や他人の経験、他国の事例や、自国の歴史、そういったいろんなサンプルから「ちょうどいい」を判断するのだ。果たして、それが就活生に可能だろうか、、、?無理だ。たいてい無理だ。

 

だから、就活の時には先の基準を少しいじらないといけない。「すべきでないこと」のうちで、「できること」を、「やりたい」ようにやる、だ。これで、大抵は、先の価値基準を持ち合わせてる奴はうまくいくが、一つ問題があるのは「やりたいこと」を「ビジネス」を通しても「やりたいこと」になるか、だ。例えば、ここに社会について「議論」という手段を用いて「真理」に近づくのが好きな奴がいるとする。この「やりたいこと」は「すべきこと」のうちの「できること」であったので、それをビジネスにしたいと考える。そこで、金になるようにするために、You-Tubeで議論の様子を流す。そうなると、PV数を稼がないとビジネスにならないわけだが、PV数を増やすためには、刺激的なことを言わなければならない。そうして、新しい理論や仮説を提案する時間を増やすと、気が付いたら「真理」に近づくことができなくなる。結果、本質的ではないのでやりたくなくなる。こんなことになりうる可能性がある。

 

だから、「やりたいこと」の「本質」がビジネスを行っても保持されるか、を気をつけながら就活をしなければならない。この「本質」を判断するのが難しい。また、多くの人がここに目を向けていると、それがやりたいことであった理由は、それを「一緒に行った仲間」がよかったから、ということになるだろう。

 

その「仲間」と一緒にビジネスができれば万々歳だが、そうならないのがほとんどだ。だから、その好きだった仲間のまた「本質」をみなければならない。仲間の顔か性別か頭の良さか良心か。おそらく、一つと決めることはできず、必要な要素が適切な程度にある場合に、その人は、心から好きだと言える「仲間」になりうるのだろう。

 

そうして、その仲間の本質がわかったところで、次は、その本質が同質な人の集まりを嗅ぎ分けなければならない。誰でも嗅ぎ分けることができるコツは、プライベートな空気をつくって、プライベートな話をいっぱいすることだ。そうすることで、その仲間の腹が見えてくる。

 

こうやって、「すべきでない」ことのうちで「できること」を「やりたいように(やりたい人と)」やる、が定義されたら、あとは、幾つかの会社を受ければよい。程度の差はあれど、受けた会社は、あなたにとって十分なほどの環境が整った会社で、どの会社に受かっても「有り難い」のである。受からなかったら、それは、そのまんま、その会社は、他の人と比べた時に、あまり、あなたと一緒に仕事をしたいと思わなかったのである。

 

こうやって、自分に言い聞かせて、就活を頑張る。

 

年が若く、根本にある考え方がマイノリティーの人は、ワンピースを参考にするといい。

この国では言挙げにリスクが伴いやすい。特に本音についてだ。

本音には大体そのコミュニティーの秩序に関わる大切なことが含まれている。物事を考えるためのベース(基盤)の部分が本音にある。そのベース(基盤)の部分が周りと異なれば、他人が自分から離れるリスクが上がる。例えば、「一番になるのが最優先事項」だとされているコミュニティーの中で「一番になることは結果であって、目的にすべきではない」といった類の本音は言うと大変だ。そのコミュニティーの存在意義が揺らぐかもしれないからだ。彼/彼女はそれに合わすことができなければ、大体そこから離れる。できるだけ、波風立てず、こっそりと、そのコミュニティーに迷惑をかけないように抜けるのだ。

ところが、こっそり抜けられにくい場合がある。それは、そのコミュニティーが大きい場合だ。この場合は、簡単には抜けられない。例えば、日本人というコミュニティー。今は「やりたいことをやるのが一番」という人生にあり方に関わる判断基準が広まっている。ここに「やるべきことをやるのが一番」という人生のあり方に関わる判断基準を持ってしまった日本人がいるとする。流行りの判断基準にとってこの判断基準にとっては不都合な存在だ。人生のあり方に関わる大切な問題なので、前者は後者を否定するしかなくなる。そうすると、その日本人は日本を移動しようと一度は考える。しかし、それの代償はでかいし、移動したところで手に入るかもわからない。そこで、彼/彼女は大抵、プライベートでこっそり同士を探すか、パブリックに大胆に同志を探すか、だいたいどちらかの選択をとるだろう。前者は、敵は増えないが、仲間を見つけにくい。後者は、敵を増やすが仲間を見つけやすい。どっちも一理あるので、中間を探そうか、いやいや、そんな適応主義的な選択はまだ受け入れられない。若いんだから他のもっと接客的な可能性に賭けたいんだ。妥協をしない選択肢。「同志を増やす」という方向だ。そこで参考にしたいのが「ルフィー的巻き込み法」だ。

 

ワンピースとは、一つなぎの大秘宝(ワンピース)というものをみつけるために、旅をする海賊の話である。主人公ルフィは、その旅を共にするために仲間を「ゆっくり」かつ「多動的」に集めていく。「ゆっくり」というのは、他の海賊のように大っぴらに募集するのではなく、旅の途中で、寄り道を多分にしながら、たまたま出会った気に入った仲間を、ルフィが(半ば強制的といっていいくらいの勢いで)勧誘するということ。「多動的」というのは、一つの島に居座ることなく、一つ目的を達成したらすぐに異なる島に移住し、直接的な出会いを多く生むということ。このように「ゆっくり」かつ「多動的」に人を集めていく中で仲間になる前に大体起こるお決まりごとがある。それは「衝突」だ。一人の仲間が仲間になる前には大体、武力によってか、或いは、言葉によってか、大なり小なり何かしらの衝突を起こす。そうして、雨降って地固まり、強固な信頼関係ができあがる。これが、大体のルールだ。もちろん例外はある。ニコロビンはよくわからない取引から仲間になったし、ブルックは争ったわけではない。しかし、時系列は若干ずれても、どこかで争い、どこかでルフィが「お前が必要だ」と言ってくれる(だろう)。

 

これだと、確かに敵は増えにくいし、根本の大切な何かを共有しあっている確かな仲間を集めることができる。行動は多動に、人選は慎重に、勧誘は豪快に、差異に素直に。これが、上記で述べたルフィ海賊団のスタイルだ。

 

しかし、確かに大変なこともある。なにぶん人数がやはり少ないので航海が大変だ。予想外の危機の時はマジで大変そう。それでも、それも何か一つのアトラクションのように積極的に受け入れ、楽しんでいるように見えるのがルフィ海賊団である。もはや、大変なことこそが、彼らの旅のスパイスになっているといっても過言ではない。ルフィなど、わざわざ敢えて危険な島に向かう人物である。このような姿勢があると、もはや人数は多すぎないことを望むかもしれない。

 

 

・・・・・で

 

 

テーマのことを主張するにはもう十分なのだが、あと一つ、ルフィー海賊団には素敵な魅力があるのでもう少し語ってみる。これは、「マイノリティー」にはあまり関係がない。

 

彼らの一つなぎを秘宝を追い求める姿勢が素敵だ。レイリー(海賊王の元副船長)との出会いがあった時、船員の一人ウソップが宝の在り処を聞こうとする。すると、すかさずルフィーが止めに入るのである。ここに人生の醍醐味がつまっていると思っている。以下のシーンである。

www.youtube.com

 

このシーンの「旅」を「人生」と言い換えながら観て、今でも自分の人生観に影響を与えている。

人の生には意味があるのか、あるいは、あるとしたらその意味とはなんなのか、それはいまだにわかっていないことだ。だからといって、意味は無いと構え、それを模索する姿勢が一切なくなると、生きることができない。だから、いつかそれが、ずっと先に見つかると信じて、生きてみるのである。普遍的なものか、個人が見出すものなのか、それもまたわからないけど、とりあえず信じてみるのである。

これまで、多くの人が、生きる意味があると信じて生きてきた。その証としての歴史であり、その上に、或いは、その中に、生きていて、生かさせていただいているのが我々、今を生きている人類である。この世の有り様を全て知った時、ある一つの境地に達するはずだ。その境地から世を眺めた時、自由意志を獲得しているはずである。

今では、そんな風に聞こえて来る。

 

これは、目的を持って生きた方が充実する、といったような個人に焦点を当てたライフハックのような話ではない。「した方がいい」とか「役に立つ」とかそういう次元の話ではなく、普遍的な人生哲学をルフィーは説いたのである。「そうなくてはならない」という世界公理を説いたのだ。ワンピースの世界における「海賊」が「海賊」であるためには、先のような姿勢を保つのが必須であるのだ。そういっているのである。

 

また、もう少し加えておきたいこともある。「人生の意味はわからない方がいい」という仮説もこの短いやりとりから伺える。「分かる」というのは「終わり」を意味するからだ。例えば、食べられないパンを考えている間は、答えを見つけようと進んでいるのだが、フライパンだと分かれば、活力が損なわれる。でも、ピーターパンやカトパン等、他にも答えになりうる候補があれば、活力は少しばかり残るのだ。本屋にいけば色々な生き方の本が立ち並んでいるが、これは、人類の生きる意志を育むための一つの工夫なのだ。

 

 ・・・・・。

 

最後に、夏目漱石草枕を引用する。

 「に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」

インターネットの普及や交通機関の高度化によって、使い方によっては、目的のあるコミュニティーをつくり、存続することが容易になった。絵や詩へ想いを吐き出すこと以外の選択を選べる時代になったのである。

 

 

話題に上がっているN氏のブログを分かりやすく書き換えた。

N氏の「お金の奴隷解放宣言」のブログを読むと積極的な人だなぁと思ったのと同時に、モヤモヤを感じた。そのモヤモヤが何なのかは未だ全てはよく分かっていない。一つだけ分かっているのは、言っていることがよく分からないことによるモヤモヤだ。それを明らかにすることを目的とする。

 

 

N氏の絵本を無料公開するまでの流れについて

 

 

きっかけ

価値あるものを貧しさを理由に得られない人がいた。

 

きっかけから生まれた現状への不満

・お金が格差を誘因している。

・お金に縛られることは気持ち悪い。

・お金が無い人に価値あるものを提供できないことは「糞ダサイ」。

 

現状の不満から生まれた社会への問い

全てのモノはお金を介する必要がないのではないか?

 

問い対するN氏なりの答え(代替案)

「原則、お金よりも恩を介してモノは回った方がよい。」

 

その実現可能性について

SNSの普及によりオンライン上で誰とでも「繋がれる」ようになった。

昔の村社会にあった「繋がり」の復興。

「繋がり」があるとお金を介さずともモノの交換ができる ex物々交換・信用交換

したがって、恩を介してモノは回ることができる。

 

メリット

面白い。

 

今後のプラン

「お金の奴隷解放宣言」と題した、恩を介してモノの交換をする生き方への挑戦とその啓発(?)。

 

具体的には

インターネット上で絵本を無料の閲覧を可能に。

 

理由

本は恩を介して回るものである可能性が高いから。

 

 

余談

・N氏が抱く生活難になる不安<できるだけ多くの人に楽しんでもらうこと。

・誰かが恩返しをしてくれるだろう。

・絵本の無料公開→皆が豊か→自分が豊か。

・ギブ&ギブの方が他人にとっても自分にとっても良い。

☆今回の件に乗じた他のクリエイターへの無料の強要は禁止。

(後から付け加えられたものであるらしい)

 

 

所感

N氏のことはあまり知らないので、ブログに書かれてあることのみを配慮して解釈を試みた。だから、多少揶揄しているように見受けられる箇所が数点ある。例えば、恩を介してモノが回ったほうがよいことに関するメリットが「面白いから」だけである点など。本当は、もっと色んなことを考えて代替案を述べられているのであろうが、、文面から伝わってきたのは「面白いから」だけだ。他にも言葉足らずであるように思える点がチラホラ(糞ダサいはあまりにも・・)。もう少し言葉を丁寧に使っていただけると、理解力の乏しい自分にとってはありがたい。

余談の☆の部分をもっと膨らましてクリエイターへの配慮を示したり、お金への批評と恩重視のモノのやり取りの記述にもう少し丁寧に言葉を尽くしたりしたほうが、理解が得られる文になって、より真意が伝わるブログになっていたのではないかと思う。

 

軽率に発言をして誤解を招いてしまうことが少なくない今日この頃。「言葉を尽くす」って大事だなぁ。気を付けよう。。。

 

慣習法と政治学の基本用語と三権分立の実態

昨日、友人に教えて貰った内容が非常に面白かったので、ブログにてそれを整理をする

 

国際法

 

日本は間違った国際法の考え方をしている。それは、「慣習法」という考え方がほぼないことだ。国際法には、慣習法と条約がある。慣習法とは、歴史が担保している「当たり前」を「確認」する法律のこと。条約とは、国が「つくった約束」のこと。慣習法にも二つある。一つは、明文化されてないもの。もう一つは、本来明文化される必要のないものを明文化したもの。後者は「当たり前」が分からない人たちがいるから明文化されたもの。具体例を二つ挙げる。

一つは、ジェノサイド条約。ジェノサイド条約とは集団殺戮を禁止した条約。この条約の「集団殺戮をしてはいけない」という「当たり前」は、30年戦争の残酷な歴史が担保している。30年戦争とは、1618年〜1648年の30年の間に行われたヨーロッパの歴史上最悪の宗教戦争。当時「異教徒は殺せ」「異端は苦しめて殺せ」という今では考えられない常識があった。その犠牲になった死者数は約400万人。多くの犠牲を払った後、関わったヨーロッパ諸国は異教徒を殺す必要がないことに気づき、ウェストファーレン条約を締結。それから、約300年間、「異教徒は殺してはいけない」という認識が存在し続けた。そして、それが「当たり前」になり、それを「確認」するために、1948年にジェノサイド条約ができた。

戦時国際法も慣習法。戦時国際法は主に3つのことを定めた。それは、

①戦時と平時がある②戦闘員と非戦闘員がいる③敵・味方・中立がある 

だ。この長年「当たり前」とされてきたことを「確認」するために、戦時国際法ができた。しかし、明文化することが良いことばかりとは限らない。というと、実は、戦時国際法ができたせいで、現在シリアで行われている争いは「戦争」ではなく新しく「紛争」という言葉で定義され、戦争に制限を加えることで抑止力をもたらしていた慣習法の適応が難しくなったという説もあるみたい。

 

政治

政治とは何か。それは「意思決定をどのように行うか」である。この意思決定がどのように行われているか、を考える上で重要な4つの力学がある。

①推進力・・政策を実行する力 

②拒否権・・推進力を妨害できる権利

③命令権・・Power of command と呼ばれる。役割の持つ命令ができる権利。

④影響力・・Power of influence と呼ばれる。実質の持つ影響力。

 

これがベースなのだが、ここに⑤「空気」を加えたい。

山本七平さんの「『空気』の研究」という本では、この「空気」も政治の意思決定に影響を与える要素と紹介しているらしい。(読んでないから内容はまだ分からない)

https://www.amazon.co.jp/「空気」の研究-文春文庫-306‐3-山本-七平/dp/4167306034

 

具体例を挙げてそれぞれを説明する。戦前からタイムスリップしてきたTHE普通の家族が今晩外食に行く時の会話を例に挙げる。

 

①子「まわらない寿司を食べに行きたい」

②母「高いわ。いやよ。」

子  (あきらめのため息)

③父「二人とも俺についてこい!マックでスマイルを拝みにいくぞ!」

  (母のスマイルが消える)

④父 「あ、、、じゃあ、、ジョイフルにでも行く・・?」(あまりいきたくないけど、、)

⑤母 「悪くないわね・・」(ビミョーだけど、、、代案思い浮かばないし、、)

→全員しぶしぶながらジョイフルに行く。

 

これは、

 

①子の推進力行使。②母の拒否権発動。

→交渉失敗。子と母の立場上、スティーブジョブズ並みの影響力がないと交渉は成立しない。

③父の命令権行使。④母の影響力が高まる。

→意思決定失敗。母の滅多に消えないスマイルが消えたことが恐ろしすぎて(影響力)、父が意思を変えた。

④⑤空気を読んだ

 

と説明できるのではないかと思う。

 

余談だが、、、

シビリアン・コントロール(文民統制)は影響力によるものである。文民が軍の意思決定大して強い影響力を持っているので、結果的にコントロールできているのである。つまりは、軍は意思を持つことを許されているのである。

 

三権分立

 

三権分立とは、司法・行政・立法の三つの機関が拮抗し合うことで、権力の偏りを妨げる仕組みだ。しかし、どうも実態は異なるという話もあるらしい。

検察庁内閣法制局財務省主計局 が実際の権力を持っている三機関とのこと。

順を追って説明する。

 

まずは、検察庁

刑事事件の疑いで被疑者が警察によって捕まった後、検察に渡され、検察が起訴・不起訴の決定をする。実は、検察が起訴した場合、99.9%が有罪判決になるとのこと。この数値が意味することとは、、、

次に、内閣法制局

閣議決定に先立って現行法に基づいて、新規法案のチェックを行うことから、別名、「憲法の番人」と呼ばれる。ここにいるのは、法律に強いからという理由で、各省庁からヘッドハンティングされてきた、できる奴の中のできる奴。最高裁判所すらも喧嘩をしたがらない機関。

そして、財務省主計局。

国の予算を決めている機関だ。

一般的には、政治家の仕事は

・法律をつくること

・予算をつくること

・官僚を見張ること

と3つあると言われているが、予算を実質決めているのは、財務省主計局である。

 

おわり。

 

 

本とブログについてディベート形式で比較してみて、その活用方法を探る。

最近は、どうも情報収集源がブログに偏りがちだ。自分の欲しい情報が容易に手に入るため、易きに流れてしまい、本に手が伸びにくい。おそらく本に手が伸びないのは、ブログと比べた時の本の重要性をきちんと言語化できてないからだ。そこで、今回は、本とブログを取り上げて、情報収集の有用性はどっちが高いのか、本とブログは多種多様であるので無理があるのは重々承知だが、なるべく普遍的な特徴を捉えて一人簡易ディベートを展開してみる。

 

情報収集に利用するのは本の方が良い。是か非か。

 

肯定側

情報収集に利用するのは本の方が良い。まず、言葉の定義をする。ここでいう情報収集とは、リベラルアーツのための情報収集に限る。リベラルアーツの意味を以下のWEBサイトが載せているものに限る。

www.obirin.ac.jp

内容としては

複雑化した現代社会では、ある特定分野の専門的な知識が求められる一方で、幅広い知識を身につけ、異なる考え方やアプローチ方法が理解できるような総合力が必要とされています。リベラルアーツはさまざまな学問領域を自由にそして積極的に学ぶことで、実社会で活躍し豊かな人生を送ることができる総合力のある人間の育成を目標としています。

というものだ。

これをまとめて、今回は、

「さまざまな学問領域を自由かつ積極的に学ぶ方法によって、異なる考え方やアプローチ方法が理解できるという意味での総合力が身につき、そのおかげで、実社会で活躍し、最終的には豊かな人生を送ることができる人間の育成を行う情報収集の仕方」についてディベートを展開する。

 

本のメリットは3つある。

1情報の質の高さ

2体系的な情報の理解

3視野の拡大

 

それぞれ説明する。

 

1 情報の質の高さ

以下のサイトから

ブログ記事作成と本(出版)執筆の違いは?編集者さんからも認められる文章とは? | 100倍BLOG

情報の質についての述べる。

ブログから編集者の存在により以下の2点の質が高まると言える。

 

1.1分かりやすさ (「てにおは」「主語述語」「接続詞」を正しく使う)

1.2面白さ

さらに

1.3正しさ

 

を付け加えてもいいだろう。

 

1.1分かりやすさ

正確な日本語が使われているので、読み手は正確に文意を理解することができる。また間違った日本語を学ぶことが少ない。

1.2面白さ

面白さは情報収集の気概を生む。その気概が大きければ大きいほど、その情報は頭に残る。

1.3正しさ

ブログは間違った事実を用いても第三者からの校正がされにくいため、修正されない可能性が高い。さらに、ブログは公表した後に修正ができるため、間違いのない記事を書くという責任はあまり問われないが、本ではそうはいかない。これが、正しい事実を書くことを推し進める。

 

 

2 体系的な理解

本の目次を見ればよくそれがわかる。本は多くの情報を載せることが許されるので、より広く(3で詳細を記述)、より2.1「深く」掘り下げて本のタイトルについての解釈を施しており、さらに、それを分かりやすくするために、情報を 2.2「整理」して記述している。広さと2.1 2.2 の要素はブログより上だ。体系的に物事を理解するためには、2.1 2.2 の要素は必須だ。体系的な理解は情報の実用性を高める。実社会で活躍するためには、知識は実用性のあるものでなければならない。

 

3視野の拡大

本には主題とは関係ない情報が書かれていることが多い。そのため視野の拡大を推し進める。

 

これから「視野」「視点」「視座」と三つの言葉を使い分けるので、ここで定義をしておく。

 

「視野」:どの分野を見るか。関心領域のことを指す。

ex 教育 文学 音楽 政治

「視点」:どの点から見るか。関心領域についてどの視点から考察するかを指す。

ex タバコについての見解だと、
心理学的視点「ストレスの発散になる」
社会科学的視点「タバコは非行の始まり」
実践知的視点「お金の無駄遣い」
経済学的視点「国へ経済的な支援のため」
環境保全学視点「ゴミ」

といった感じ。

「視座」:どの高さから見るか。

ex タバコについての見解だと、

タバコを吸ってる人「タバコを吸うのは心地よい」

JT「タバコを売ることで多くの従業員の雇用を生んでいる」

国「たばこ税に感謝」

WHO「年間600万人がタバコによって殺されてる」

といった感じ。

 

以上

 

幅広い分野の知識を得ることを意識的に行うのは困難だ。なぜなら、人は興味が湧くのでその分野の情報を収集するからだ。その興味というのは限定される。ゆえに、どうしても偏る。したがって、自分の興味の如何に関わらず様々な分野の情報が入ってくる環境に身を置くことが必須になる。本はその環境に適している。

 

否定側

言葉の定義は肯定派に従う。

本とブログの定義を付け加える。本を紙媒体であり、売上を重視したものであり、著者一人の考え方が主に記載されているものとする。ブログは、広告収入を意識していないものであるとする。

 

本の短所として以下の3点が挙げられる。

1.手軽でない

2.視点・視座の限定の可能性

 

 

①.手軽でない

実社会で活躍するということは、忙しいということ。忙しいと満遍なく情報収集ができかねる。実社会で活躍する読者は、最低限必要なレベル(深さ・視点・視座)で情報収集することが求められる。その最低限必要なレベルというのは定めるのは困難だ。このレベルを定めるためには、二段階の情報の収集の仕方をする。まず、その分野の概要を把握する。次に、その情報の一部について深く掘り下げて調べたり、異なる分野についての情報を得る必要性が生まれてそれを調べたりする。概要を把握した後、もっと深く或はもっと広く収集しなくてはならない情報があることを知るからだ。

これらの作業の際、本を使っての情報収集であれば多くの無駄が生まれる。まず、概要を把握するのに、本に書かれているほどの情報量は必要ないことがほとんどであること。次に、本来必要性の生まれるはずのなかった情報についても入手してしまう。費用対効果の小さい情報収集を行ってしまう。時間を無駄使いしてしまう。そうして、本来、実社会で活躍するためにもっと有意義に使えたはずの時間が失われる。

 

②.視点・視座の限定の可能性

本は、主に1人の著者の視点・視座によって書かれたものである。ゆえに大量の情報の割には、視点・視座の数は少ない。ある分野においての情報収集の時間は限られている。ゆえに、ある分野について把握すべき視点・視座少なくなる可能性が高まる。

 

ブログでの情報収集であれば、これらのデメリットはなく、さらに3点のメリットがある。

 

1.手軽

短い時間に必要な情報を必要な分だけ入手することができる。ゆえに実社会で活躍する忙しい人に向いている。

 

2.視点・視座の網羅

ブログで情報収集を行うと、一つのブログに割く時間は短時間で済むので、様々な人の視点・視座での情報収集が可能になる。

 

3.自由度の高さ

本であれば売上を重視しなければならない。そのため「売れること」しか書けないという制約がかかる。ブログであれば、どんなテーマについての記述可能である。例えば、今取り扱っている「本とブログの違い」というテーマについての解釈は情報収集する者にとってそれなりに重要であろうが、これはページ数が少なくなって本としての体裁が成り立たないため出版不可能である。自由度が高いことで、本では見つけることが難しい「重要だけど商売にならない」情報を早く見つけることができる。

 

第一反駁 肯定側→否定側

 

Attack to 

①.手軽でない

ブログで情報収集すると、よく内容がダブっているものを見る。そのダブりの要素を読むのは時間の無駄になる。本であれば、ダブりは少ない。そのダブっている箇所を読む無駄な時間と読者の必要としていない内容を読む時間はさほど変わらないのではないか。もっと言うと、ダブっている内容を読むことと、読者は必要としていないが、知らない情報を入手することは、どちらの方が価値のあることであろうか。さらに、そもそも、ここで読者は、読者にとっての概要が最初から認識できている前提に立っているが、概要は縦横無尽な情報収集があって全体像が見えてからやっとはじめて認識できるものであり、おかしい。故に、読者は最初から概要の把握はできないので、否定派が提案した情報収集の仕方は一段階目で破綻する。さらに、仮に概要を把握できたとしても、情報の必要性はどれほど分かるのであろうか。否定側の理屈は机上の空論、否、ただの空論である。

 

Attack to 

1.手軽

必要な情報のみを入手する必要性は仕事の上では重要だが、リベラルアーツ的な学びを行う上ではそこまで重要でない。なぜなら、必要性は自分が決めることであり、その意思決定には関心があるかどうかという基準が欠かすことができないため、関心に基づいて必要性が決定される点でどうしても偏りが生じるからである。偏りは幅広い知識を身につける上で弊害となる。

Attack to 

3.自由度の高さ

自由度の高さはさほど重要でない。売り上げに繋がらない情報は、得てしてニーズの小さいものである。ニーズの小さいものは、実用性に乏しいということだ。実用性乏しければ、実社会で活躍するためには不必要なものである。寧ろ、収益性を考えて自由度を小さくし、情報をふるいにかけて、実社会で活躍するのに役立つ情報を集める方が重要だ。この点で、本の方が勝る。

 

第一反駁 否定側→肯定側

Attack to 

1.1分かりやすさ

ブログは情報量が少ない。少ないがゆえに、疑問が生まれ、自身で検索をかけて、積極的な学びが行われる。そうして、行われた積極的な学びで得た知識は有機的な繋がりを持つ。なぜなら、疑問を生んだブログと疑問を解決したブログとの間には、自身の思考が存在しているからだ。こうして自分で考えながら情報収集を行うので、ものごとがよく分かる。確かに文の分かりやすさでは劣るかもしれないが、このようなもっと深い次元での「分かる」においては負けていないかも。(本当は、反駁で新たに意見を言ってはいけなんだけど、、真理に近づくためのディベートなのでご愛嬌)

Attack to 

1.3正しさ

時間が変われば変わる事実がある。時間が経てば重要でなくなる事実がある。紙媒体の本だと修正が効かない。ブログだと修正が効く。さらに、ブログでは、他者からのコメントをもらえるので、第三者による校閲も可能なことがある。人気なブログであれば、もし間違った事実を書いても、誰かがコメントをしてくれて、修正の機会をもらえるだろう。

 

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代表的日本人を読んで 〜日蓮上人編〜

日本を代表とする僧侶、日蓮上人。法華経を弘めた人物である。法華経の概要を紹介するために、

あなたも菩薩になろう!―イキイキ生きる6つの方法|法華経の教え|仏教の教え|日蓮宗ポータルサイト

のサイトを一部抜粋する。これは六波羅蜜と言って、仏になるために行う6つの修行である。

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この6つを極めたのが日蓮上人だ。彼の特徴について3点記述する。

 

勇敢

日蓮上人は日蓮宗以外の宗教を、地主を、幕府を敵に回した。彼らは、日蓮上人の布教活動を、流刑や死刑を持ってやめさせようとした。そして、日蓮上人は幾度も命が危険にさらされる。それでもなお、彼は命の危険をかえりみず、当時、価値が低くみられて他の宗派と比べて盛んでなかった日蓮宗を布教しようとした。結果、現在では約400万の信者がいる。これは、日蓮上人のおかげであるといって間違いない。

 

西郷もそうであったが、これは命よりも大義を大切にしている姿勢ゆえにできることだ。これは、日本における昔の偉人の共通項である。勇敢であることは、多少の危険もある。勇敢であるためには、揺るがない信念が必要だ。その信念が間違っていた場合、逆に世の中にとって大悪党になってしまう。ヒトラーが良い例だ。ゆえに、勇敢になる前に慎重になるべきだ。自身の信念が正しいのか幾度も検証をして、意を決して行動する。行動し始めたら、ぶれずに突き進むべきだ。書経でも「疑謀は成すなかれ」という言葉でこのことを述べている。これは「自分がこれから行うつもりのことに少しでも疑いがあれば、止めるべきだ。疑念や不安は心の毒薬のように自信を揺るがし断行力を削ぐ。確信をもって行動すためには、核心に触れるまで努力しなければならない。」という意味である。

 

 粘り強さ

幕府はあの手この手で布教活動を辞めさせようとするが、最後には断念し、日蓮上人に自由に布教活動を行なって良い権利を与えることになる。日蓮上人の粘り勝ちである。

 

粘り強くあるためには、確固たる信念が必要だ。その信念がある粘りは人を動かす大きな力を有する。ガンジーキング牧師も長い間粘った。その結果、相手を動かすことができた。相手は、理に動かされたわけではない。彼らの情に折れたのである。その情、つまり熱量を最も表現できる手段が粘りである。予想をはるかに上回る粘りを見せることで、相手が途方も無い戦いを想起し、精神的に疲弊し、折れる。相手にとってどんなに理不尽なことでもひっくり返すことができる荒技、裏技が「粘り」なのだ。革命家にとって「粘り」は必須の要素である。

 

宗教

自分は日本の宗教観は嫌いではない。以前TEDで紹介されていた日本の宗教観についての解釈を引用する。

「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは - ログミー

 

当該webサイトでは、他国が「believe in something」なのに対し、日本は「respect for something or respect for others」であると紹介している。ゆえに、日本は他宗教に対し、寛容なのであるという。これくらいの感覚なら、もしかしたら寧ろ宗教観は持っていた方が、マスの人格の形成の為に良いかもしれない。宗教は、悪いイメージを持たれがちだが、結構、真っ当なことを書いているように思える。例えば、先に紹介した日蓮宗の修行内容についてだが、当たり前とされている大事なことを述べている箇所が幾つも見受けられる。①の布施の「世のため人のためにつくしなさい。」とか。②の持戒も見てみよう。「むやみに生き物を殺さない」「盗みを働かない」「道に外れた邪なことはしない」「うそをつかない」「酒によって自分を見失わない」、、、大事なことばかり書かれている。宗教は人間をコントロールする力を持っている。その力を善く使うことができたら、宗教は善いものでありそうだ。さらに、この本が紹介している宗教の有用性についてここに紹介する。

私どもは、自分の能力をはるかにこえる願いごとをもち、世の与えうるよりも、はるかに多くのものを望むという、妙な存在なのです。この矛盾を取り除くためには、行動はともかく、少なくとも思想の面でなにかをしなければなりません。

宗教は得てして欲を抑えるものだ。人は欲が原因で争いを起こす。つまり、本来、宗教は争いを防ぐためにあるものだ。

 

これにて、代表的日本人の感想文を終える。

 

 

 

代表的日本人を読んで~中江藤樹編~

先生の模範となる人物がこの中江藤樹である。中江藤樹もまた、二宮尊徳と同じように「大学」を以って、全生涯を決める大志を立てた人物である。特に大学のこの言葉「天子から庶民にいたるまで、人の第一目的とすべきは生活を正すことにある」を知って、それから聖人を目指したという。聖人としての要素として最も大切にしたのが「謙遜」であった。それを象徴するエピソードにこのようなものがある。

 

漢詩と書道を習うため、天梁という学識ある僧侶のもとに送られました。この早熟な少年(13歳)は、先生に対し多くの質問を発しました。なかでも次の質問は、よく藤樹の人物を物語っているものであります。「仏陀は生まれると、一方の手は天を、他方の手は地を指し、天井天下唯我独尊といったとお聞きしました。こんな高慢な人間が天下にいるでしょうか。先生は、そんな人間を、なぜ理想的な人物として仰いでおられるのでしょうか。教えて下さい。」その少年は、後年もけっして仏教を好きになれませんでした。・・・

 

謙遜の美徳に反するなら、当時は人々の生活に根付いていた仏教にすら異を唱える人物、藤樹について、以下の3点について所感を述べる。

 

謙遜

今は、就活をはじめとした各所で「アンチ謙遜」の流れがあるように思う。グローバル化に伴って、世界基準のコミュニケーション術を身につける必要性が謳われている。そのうちの一つが、謙遜するのではなく、逆に自分自身をより良く見せようとするのが良い、というものだ。謙遜が美徳として当たり前となっている文化の中では、謙遜は評価を上げる一つの指針になりうるが、そういう文化の外では、逆に評価を下げることになってしまう。

さらに、謙遜の美徳は「身の程をわきまえる」ことを勧める。これは、昔は共生社会であり、その社会を支える上では身分秩序が必要で、「身の程をわきまえること」はその身分秩序を支えるための一つの礼であったからだ。しかし、今の時代では「身分秩序」の重要性はほぼ謳われなくなり「実力主義」が大事とされている。グローバル化により過度の競争社会に突入し、実力がある人を抜擢しないと生存競争に負けるからだ。そして、他人に負けない実力をつけるために、最近では某企業が「身の程なんか一生知るな」というCMで叫んでいるが、、「ハングリー精神」が大切だと言って、「身の程をわきまえる」道徳は廃れつつある。

このような背景があって、今日では本屋でビジネス書のコーナーに行くと、いかに自分を魅力的に「アピール」できるか、を研究した本をよく目にするようになった。良くも悪くも日本の常識がビジネスと呼ばれる世界では変わりつつあるようだ。

常識は人間同士が、社会という場において、お互いに心地よく過ごすための暗黙のルールである。故に、その社会が変わってしまったのであれば、それに合わせて常識も自ずと(慎重に)変わって良いと考える。従って、これらの流れについては、あまり違和感は抱かない。

ただ、「アピール」はビジネスの場のみにとどめておいて欲しい。好きか嫌いかも一つの理由なのだが、何より「謙遜」は、より自分自身を正確に見つめることができる手段にも、より自分自身を高めることができる手段にもなりうるからだ。どうも人間は、アピール(本来の自分をもっと魅力的に見せる行為)をしていると、そのアピールで表現をしている自分が本来の自分と勘違いをしてしまうようだ。自分のことを正確に分かっていないと効果的な戦略が立てられない。孫子が「敵を知り己を知らば百戦危うべからず」と言っているように、己を正確に知ることは競争社会を勝ち抜く上では必要なことなのだ。さらに、自分のことを正確に知ることで、効果的な自身の成長戦略を立てられる。故に、日常は「謙遜」な態度でいて、自身を見失わないようにし、必要に応じて「化粧をした顔」を見せると良いのだろう。

 

母親崇拝

藤樹の全道徳体系の中心には孝(子としての義務)があった。故に、母の介護をしている時が最も幸福を感じていたという。

孝行は現代においては余計に難しくなったように感じる。何故なら、親から愛のある教育を受けられている人が少なくなったからだ。親から愛情の受け取られなかったら、或いは、愛があったとしても子がそれを感じられなかったら、子は言語的には「育ててもらったから」と恩の存在を認知はするが、「実感」としては恩を「感じない」。これではいけない。恩は「心に因る」と書くように、「心で感じ」無ければ、無いのも同然であるからだ。今は、共働きの人が増えて、子どもの運動会や授業参観に来られない人が増えて、愛を感じられない子どもが増えているのではないかと思う。また、テレビの普及が家族内のコミュニケーションを阻害し始めたことがそれに拍車をかけた。さらに、子どももテレビを見るようになり、孝行する機会も失われた。

そして、親孝行は昔より垣根の高いものになった。ゆえに「そのうちする」という軽い気持ちでは、易きに流れ、気が付いたら親の死後、嘆くことになるだろう。親孝行に壁を感じる人は、意識的に、多少無理矢理でぎこちのないものになってしまうかもしれないが、勇気を出してやった方が良いかもしれない。 

 

「いにしえの聖賢の論著には、現在の社会状態には適応できないことが沢山ある」

藤樹の言葉である。聖賢の論著とは古典を指すのであろう。藤樹は、その当時の社会に適応させるために古典を自分で修正して使っていたという。

自分は、論語老子、小学、大学、孫子は読んだのだが、著書の中で最も伝えたいことは今でも通じ、それを伝えるために所々に出てくる名詞とそこまで大切なことでない教えは時代を感じた。どういうことか。例えば、次の論語一節。

「子の曰わく、關雎(かんしょ)は楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」

意味は、

「『詩経』の關雎(かんしょ)の詩は、楽しくても踏みはずさず、哀しくても哀しさのあまり心を痛めるということはなく、よく調和が取れている。」

というものだ。詩という名詞が時代を感じさせるし、さらに詩についての教えを説いているが、今ではこの教えを大事にする人は、ごく僅かであろう。

所々、上のような時代を感じさせる教えがあり、無駄を感じさせるかもしれないが、個人的には、それを許せるのに十分なほど本質を穿った重要な言葉が古典には集約されていて、読んでみる価値はあると思う。

 

以上。

最後は、日蓮上人。