自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

年が若く、根本にある考え方がマイノリティーの人は、ワンピースを参考にするといい。

この国では言挙げにリスクが伴いやすい。特に本音についてだ。

本音には大体そのコミュニティーの秩序に関わる大切なことが含まれている。物事を考えるためのベース(基盤)の部分が本音にある。そのベース(基盤)の部分が周りと異なれば、他人が自分から離れるリスクが上がる。例えば、「一番になるのが最優先事項」だとされているコミュニティーの中で「一番になることは結果であって、目的にすべきではない」といった類の本音は言うと大変だ。そのコミュニティーの存在意義が揺らぐかもしれないからだ。彼/彼女はそれに合わすことができなければ、大体そこから離れる。できるだけ、波風立てず、こっそりと、そのコミュニティーに迷惑をかけないように抜けるのだ。

ところが、こっそり抜けられにくい場合がある。それは、そのコミュニティーが大きい場合だ。この場合は、簡単には抜けられない。例えば、日本人というコミュニティー。今は「やりたいことをやるのが一番」という人生にあり方に関わる判断基準が広まっている。ここに「やるべきことをやるのが一番」という人生のあり方に関わる判断基準を持ってしまった日本人がいるとする。流行りの判断基準にとってこの判断基準にとっては不都合な存在だ。人生のあり方に関わる大切な問題なので、前者は後者を否定するしかなくなる。そうすると、その日本人は日本を移動しようと一度は考える。しかし、それの代償はでかいし、移動したところで手に入るかもわからない。そこで、彼/彼女は大抵、プライベートでこっそり同士を探すか、パブリックに大胆に同志を探すか、だいたいどちらかの選択をとるだろう。前者は、敵は増えないが、仲間を見つけにくい。後者は、敵を増やすが仲間を見つけやすい。どっちも一理あるので、中間を探そうか、いやいや、そんな適応主義的な選択はまだ受け入れられない。若いんだから他のもっと接客的な可能性に賭けたいんだ。妥協をしない選択肢。「同志を増やす」という方向だ。そこで参考にしたいのが「ルフィー的巻き込み法」だ。

 

ワンピースとは、一つなぎの大秘宝(ワンピース)というものをみつけるために、旅をする海賊の話である。主人公ルフィは、その旅を共にするために仲間を「ゆっくり」かつ「多動的」に集めていく。「ゆっくり」というのは、他の海賊のように大っぴらに募集するのではなく、旅の途中で、寄り道を多分にしながら、たまたま出会った気に入った仲間を、ルフィが(半ば強制的といっていいくらいの勢いで)勧誘するということ。「多動的」というのは、一つの島に居座ることなく、一つ目的を達成したらすぐに異なる島に移住し、直接的な出会いを多く生むということ。このように「ゆっくり」かつ「多動的」に人を集めていく中で仲間になる前に大体起こるお決まりごとがある。それは「衝突」だ。一人の仲間が仲間になる前には大体、武力によってか、或いは、言葉によってか、大なり小なり何かしらの衝突を起こす。そうして、雨降って地固まり、強固な信頼関係ができあがる。これが、大体のルールだ。もちろん例外はある。ニコロビンはよくわからない取引から仲間になったし、ブルックは争ったわけではない。しかし、時系列は若干ずれても、どこかで争い、どこかでルフィが「お前が必要だ」と言ってくれる(だろう)。

 

これだと、確かに敵は増えにくいし、根本の大切な何かを共有しあっている確かな仲間を集めることができる。行動は多動に、人選は慎重に、勧誘は豪快に、差異に素直に。これが、上記で述べたルフィ海賊団のスタイルだ。

 

しかし、確かに大変なこともある。なにぶん人数がやはり少ないので航海が大変だ。予想外の危機の時はマジで大変そう。それでも、それも何か一つのアトラクションのように積極的に受け入れ、楽しんでいるように見えるのがルフィ海賊団である。もはや、大変なことこそが、彼らの旅のスパイスになっているといっても過言ではない。ルフィなど、わざわざ敢えて危険な島に向かう人物である。このような姿勢があると、もはや人数は多すぎないことを望むかもしれない。

 

 

・・・・・で

 

 

テーマのことを主張するにはもう十分なのだが、あと一つ、ルフィー海賊団には素敵な魅力があるのでもう少し語ってみる。これは、「マイノリティー」にはあまり関係がない。

 

彼らの一つなぎを秘宝を追い求める姿勢が素敵だ。レイリー(海賊王の元副船長)との出会いがあった時、船員の一人ウソップが宝の在り処を聞こうとする。すると、すかさずルフィーが止めに入るのである。ここに人生の醍醐味がつまっていると思っている。以下のシーンである。

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このシーンの「旅」を「人生」と言い換えながら観て、今でも自分の人生観に影響を与えている。

人の生には意味があるのか、あるいは、あるとしたらその意味とはなんなのか、それはいまだにわかっていないことだ。だからといって、意味は無いと構え、それを模索する姿勢が一切なくなると、生きることができない。だから、いつかそれが、ずっと先に見つかると信じて、生きてみるのである。普遍的なものか、個人が見出すものなのか、それもまたわからないけど、とりあえず信じてみるのである。

これまで、多くの人が、生きる意味があると信じて生きてきた。その証としての歴史であり、その上に、或いは、その中に、生きていて、生かさせていただいているのが我々、今を生きている人類である。この世の有り様を全て知った時、ある一つの境地に達するはずだ。その境地から世を眺めた時、自由意志を獲得しているはずである。

今では、そんな風に聞こえて来る。

 

これは、目的を持って生きた方が充実する、といったような個人に焦点を当てたライフハックのような話ではない。「した方がいい」とか「役に立つ」とかそういう次元の話ではなく、普遍的な人生哲学をルフィーは説いたのである。「そうなくてはならない」という世界公理を説いたのだ。ワンピースの世界における「海賊」が「海賊」であるためには、先のような姿勢を保つのが必須であるのだ。そういっているのである。

 

また、もう少し加えておきたいこともある。「人生の意味はわからない方がいい」という仮説もこの短いやりとりから伺える。「分かる」というのは「終わり」を意味するからだ。例えば、食べられないパンを考えている間は、答えを見つけようと進んでいるのだが、フライパンだと分かれば、活力が損なわれる。でも、ピーターパンやカトパン等、他にも答えになりうる候補があれば、活力は少しばかり残るのだ。本屋にいけば色々な生き方の本が立ち並んでいるが、これは、人類の生きる意志を育むための一つの工夫なのだ。

 

 ・・・・・。

 

最後に、夏目漱石草枕を引用する。

 「に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」

インターネットの普及や交通機関の高度化によって、使い方によっては、目的のあるコミュニティーをつくり、存続することが容易になった。絵や詩へ想いを吐き出すこと以外の選択を選べる時代になったのである。