「ヒトらしい」ではなく「人間らしい」をパスカルの視点から考える
よく「人間らしい」という言葉を聞きます。それは、動物としての「ヒト」らしくないということでしょう。今回はこの「人間らしい」について考えてみます。
まず、先哲が様々な名言を見てみます。
「人間は社会的動物である」(アリストテレス)
「人間は半ば社会的、半ば孤独な存在だ」(ラッセル)
「人間は、どんなことにでも慣れる動物だ」(ドストエフスキー)
「心をもった機械」(デカルト) etc...
どれも、真理を述べているのでしょうが、今回は最も有名な(僕が好きな)フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルが述べた「人間は考える葦である」の定義に乗っかるとします。ここで使われている「考える」は最低猿以上の高次の思考をすることを指していると思います。そこで「知性」があることを人間であることの条件とします。
「知性」という言葉もあまりピンと来ないかもしれませんので、具体的に述べてみます。知性の意味は、google辞典よると「物事を知り、考えたり判断したりする能力。」とのこと。この定義をもっと絞ります。猿に出来ず人間にできることに絞ります。
「物事を知る」
モノやコトを言語的に理解し、整理し、解釈を施すことができる。抽象概念を理解することができる。
「考える」
抽象概念や言葉を用いて論理的に思考することができる。
「判断する」
己の良心に基づいて、複数の価値観や仮説を考慮し、最適解を選択することができる。
従って、「人間らしい」とは、「具体物と抽象概念を言語的に理解して整理し解釈を施すことができ、その解釈を施した情報を組み合わせて論理的に思考し、己の良心に基づいて、複数の価値観や仮説の中から最適なものを選択することができる」ことになります。
これで「考える」における「人間らしい」がよく分かりました。
「人間らしい」の後には「生活」だったり「人生」だったり、色んな言葉が続きます。その際に「人間らしい」の持つ言葉の意味が変わってきます。いつか他の言葉が続いた時における「人間らしい」について考えてみます。
今日はここまで。