自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

良心的なADHDの就活生の葛藤

衝動性があるがゆえに、学生時代にいろいろ動き回る。

そうして社会と触れる機会が増えると、「社会貢献」という四字熟語がちらほら。

高い志を持って就活を始めると、自分のできないことの多さに気がつく。

自分が入社すると、「会社迷惑」をかける不安が募る。

行きたい会社のことを考えると、自分が入社しないことが最善だと考える。

そうして、起業の選択肢を考える。

一人で世の中にない価値をつくれば、迷惑をかけずに貢献ができる。

そうして情報を集めると、大体の人は失望する。

ベンチャーの8割以上が1年で倒産する事実。

社会にも出ていない自分が果たしてできるのかと。

天才的な経験がない人間は尻込みをする。

起業するにも会社で修行を積むのが確実だと。

そうして、また就職の選択肢を模索しようとする。

そのためには、「社会貢献」の理想と「会社迷惑」の事実の葛藤を無くさなくては。

納得のいく解釈を模索する。

 

そもそも、社会ってなんだ。

昔は社会を世間と呼ぶのが常だった。

また世間は人間という意味もあった。

人と人の間。そう書いて人間と書く。

社会は人と人の間のことである。

つまり「社会をよくしよう」というのは「人と人の間」をよくしようということだ。

「間をよくする」ってなんだ。

間がなくなれば摩擦はおきない。

だから究極は合体だ。区別がなくなることだ。

これを「愛」と人は呼ぶ。

しかし合体には「個」の喪失が伴う。

「個」の喪失は、「死」とも解される。

良くも悪くも僕らは生きる意志がある。

生きる以上、「個」はなくてはならない。

生物としての資格を破棄しない限り、究極の「愛」は難しい。

ゆえに「愛」は「志向されるもの」であって「実現できない(されてはならない)もの」なんだ。

だから、なんとなく区別がつく、くらいが次のゴールだ。

それは「グラデーション」と呼ばれる。

区別はありながら、明確な境目はない、という奴だ。

境目はなめらかに溶け合っている感じだ。

個があるようでなく、ないようである、という二つの矛盾した状態が同時に存在する。

 

こうなるのにイメージするのは二つの液体だ。

密度の大きい液体と小さい液体が区切りで仕切られている。

その区切りを取ると、動きが起こる。

密度の大きいものが下に行くことで、小さいものが上にいくのだ。

こうしてグラデーションはできあがる。

自然な状態で落ち着いていて、長続きする形だ。

 

強いものが弱いものを支える形が、自然なグラデーションだ。

これを目指すと「多様性」「責務」「貢献」といろんな言葉が生まれる。

 

強きものがこういうエネルギーある言葉を用いて、弱き者を支える。

こうして調和が訪れる。

つまり、弱き者は強き者に従うのだ。

それが、弱き者の貢献の形である。

 

会社の荷物になってもいいのである。

弱き者がいてこそ強き者が存在できる。

弱き者が従順だからこそ共同体は自然に落ち着く。

弱き者が意志を持たないことが全体のためである。

 

強き者はそれをしかと受け止めなくてはならない。

強き者は存在するだけで弱き者を虐げていることに嘆き悲しむ。

強き者は弱き者を敬い慕うのだ。

強い者は弱き者のために事を為すのだ。

 

両者が「感謝」で手を取り合うのが「生きる」を担保した上での理想の社会だ。

それを目指すなら、僕らは積極的に従順で誠実なお荷物になるのである。

そうして、少しずつ力を蓄え、「強き者」になったら態度を変える。

「弱くなった強き者」に恩返しを、「強くなる弱き者」に温情を。

こうして社会は回り続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

「本質」という言葉が嫌い

「本質が大事」だとよく言われますが「本質」という言葉が今は好きではないです。
「本質」を知らない人がこの言葉を使って、人を騙したり、会話がずれたりと、色々な残念なことを目にすることがあったからです。(僕もそのうちの一人です)

 

なぜ、そういうことを見てきたのか。

それは、この言葉が「曖昧」で「便利」で「強力」な性質が起因しています。

「曖昧」から順につらつらと述べてみます。

本質という意味は、「表層でない」という意味からははみ出さないものも、「表層でない」部分のうち、どこを指すかは文脈によって異なります。

例えば、

就活をしていると、だいたい①ボトルネック潜在的なニーズ ③ 構造 のいずれかで使われることが多い気が。

評論や哲学といった分野では、①それがそれであるために最低限持たないといけない性質 ②根本 ③ なんらかの深いところにある共通するもの

といった具合でしょうか。意味が被っている部分もありますが、そこは今度、また精査します。

議論をする際、文脈を理解しながら、どれを指すかが判断できるコミュニティーであれば別に苦労をしないものも、僕の周りのほとんどの学生の場合だとそうはいきません。大体が「本質」という言葉を使い慣れていないので、そもそも「本質」が特に様々な意味を含む言葉というのが分かっておらず、「本質」と言った時点で、思考の道筋が一時的ですが分かれていきます。分かれてしまったら、それを具体的な言葉で言い換えてから、軌道修正をして、、、、時間の無駄でしかありません。

 

こんな効率が悪くなりやすい言葉なんですが、グループディスカッションのように評価される場では「便利」なんです。「本質」と言った本人はなんとなく自分の行きたい地点を分かっていて、それを指すために使います。これから議論で目指すべき、あるいは明らかにするその何かに大体自信がない時に、色々な意味を含む「本質」を使えば、間違える可能性は低くなります。仮に、その人の考える「本質」は考える必要がなくても、聞いている側が勝手に正しい「本質」に変えてくれる。しかも、この言葉を使っていれば「頭いい感じ」がしてアピールできる。やばいっすよね。

 

そういうことがありますから「本質」というのは就活の中では「わからないけど絶対的」になります。そういう意味で「強力」すぎる。この言葉を人事が使ったらさぁ大変。社会人経験を積んでいる人事は学生の知らない世界を知っている、そういう背景から学生にとっては人事は「神」のような存在です。その神が「◯◯は『本質的で』〜」と中身はわからないけどただ素晴らしいということだけが分かっているおつげ(本質)を唱え、その刹那、僕らは虜になります。「あぁ、この会社は本質をわかっている会社なんだ」と、格が上がるのです。詐欺をしたい人は、無知な学生に「本質」という言葉を使うことをオススメします。

 

さらに、「本質的でないものはダメ」という常識が就活界隈ではありますが、そもそもそれが間違っている。例えば、警察。犯罪が起きてから対処を行っている時点で犯罪に対して本質的なアプローチができているのか。商品で言えば風邪薬。対症療法だけど、具体的な状況に応じて必要になる時もありますよね。「本質」ということだけに「価値」は付されません。具体的な状況に応じて「本質」の価値は大いに変動します。それがわかっていない学生が多すぎる。

 

そんあボヤキを面接前につらつらと。これはきちんと書きたいなぁ。

 

 

本当に、本当に大切なことは当たり前の論理を使えばわかる

当たり前なこと。統計とか科学とかなしでわかること。

何が一番大切かという問いについて。

それは、よい人間関係。

想像をしてみる。

差別されていても、不自由であっても、能力がなくても、病気であっても、戦争中であっても、尊厳を踏みにじられても、心から、心からお互いを想いやり合う、家族と恋人と友人がいたら十分だ。

これは本当に当たり前のこと。

実際に、何かの部分が大切にできなくても、それを大切にしようとする真剣な想いが相手に伝われば十分だ。

 

心から思いやるには相手がいる。

どんな人間にも好きになれるというわけではない。

自分に嫌なことをする人は好きになれない。

よき相手は、少なからず、最低限の大切な何かをもっていなければならない。思いやり、礼儀、約束を守ること、正しい行いをすること、考えること、こういうそれぞれは、人間がよい関係を保つために、人間がつくった大切なことだ。これらをよいとするから、これらがある人間を人間はよい人間と言う。だから、この大切なことのどれかが欠けると、人間関係がうまくいかない。こういう諸々を大切にするのは簡単なことではない。例えば、貧しすぎると自分優位になりやすく、知識がなければ正しい行いができない。約束がなければ守れないし、真似ないと礼を体得できない。だからこそ、お金とか能力とか知識とかそういう付随するものも必要になる。

 

 

 

現実が「真に迫って」きてくれない自分へ

目の前で起きていることが迫ってこない、そんな感覚を持ち始めた人がいるかもしれない。

自分がそうだ。昔は、現実に小心者だった。あまりにも敏感だった。例えば、中学生の頃は、3週間前からテスト前の緊張感を感じていた。「今」のみならず、遠い「未来」が今の自分に迫ってきており、それを自分は確かに積極的に受け止め、自分でしっかり掴んでいたんだ。

 

しかしだ。ある時、色々なことができなくて、自分がとても嫌になった。自分が嫌になって、自分の見る世界に嫌気がさした。自分の世界からとにかく距離を取りたかった。そんな想いが張り詰めた時「プツン」と何かが切れた気がした。気が付いたら、自分の感覚が自分の元には無かった。自分の心と現状が繋がらなくなった。それから、約束や努力を蔑ろにし始めた。言語的にはそれが必要だと解釈できるのだが、その言葉を支えている「感じ」がなくなったのだ。これは、正常な人にはよくわからない感覚だと思う。過去の自分が聞いてもわからないだろう。でも、一応、説明を試みると、例えば「約束」を破れないのは、実害として「人が自分から離れる恐怖」があったり、絶対的な倫理観として「そういうものだ」みたいなものがあったりして、破れないのだと思う。しかし、先の「人が自分から離れる」ことや「そういうもの」というのが、自分の場合は、自分とは遠く離れたことのように感じてくるのだ。だから、別に自分のことではないので、対処する必要がなくなる。こうして、約束や努力の理由は健常人からしてみれば「わかっている」のに、自分だけが「わかっていない」状態が起こるのだ。

 

しかし、時々「感じ」が戻ってくることがある。それは、目的のある期間限定のコミュニティーに自分が所属し、自分がそのコミュニティー間で必要な存在である時だ。この時は、夜遅くまでその目的達成のために頑張る意義を感じることができて、朝まで作業ができる。なぜ、こういう条件の時に限って「感じ」が戻ってくるのだろうか。ここに「感じ」を戻すヒントがある。

 

たぶん、これは「確かな何かに近づいている」からなんだと思う。自分の一つひとつの言動は、確かな何かのためにある。これを無意識にしろ、感じているので、「感じ」が戻ってくるのだ。

 

そう考えると、ストレス過多の時になぜ「感じ」がなくなったのか、がわかってくる。それは「希望」を失ったからだ。「望むもの」それが何かはわかっていないが「望むもの」があったことは確かだ。それを得るために、自分のあらゆる言動が行われていたのだが、ある時、望みと自分はあまりにも遠く離れている、得られないじゃないか!と望みを絶ってしまったのだ。自分が「確か」だとおもっていた「何か」である「望み」が失われ、自分の言動を支える「何か」が損なわれてしまったのだ。

 

こう考えると、恐ろしいことがわかる。誰もが自分のあらゆる言動を支えている「確かな何か」を損なう危険性を持っているということだ。社会に出て力不足を感じた時、年齢を重ね元気が無くなった時、そして、人生の目標を達成した時、、、この「現実が『真に迫って』きてくれない」病は、たぶん、特に現代においては多くの人が経験するだろう。

 

何か、処方箋はないか、これは、人によって色々と異なると思うのだが、自分のような人間には、すごく分かりにくいので3度ほど読み直してほしいが、「建前では「大志」を目的とし「本音」では「手段として『大志』を抱き、目的として、それに真剣に近づこうとする『姿勢』を保つ」これが確かな何かだ!という風に構えた『姿勢』を大事にする」というのが経験上、マシかと思われる。ぶっちゃけ「姿勢」が大事、だけでいいのだが、、、。正確に自分の姿勢について記述してみたかったようだ。確かに、若干の活力は、ただ「志」を追い求める勢と比べたら劣るが、この分かりにくい人生を支える基盤は、長い目で見た時に、色んな迷いを取っ払ってくれる。

 

これは、説明するものではないと思う。境地の話で、意識をしながら生活していくと、徐々にこの分かりにくい基盤の滲み出る素晴らしさがわかってくる。かめばかむほど味が出るやつだ。

 

これは一般化できるかどうかはわからない。何か問いを立て、アンチテーゼを設定し、止揚を繰り返していくと、どうもここに着く気はするが、それをブログに記述する勇気と気力がもうない。

 

よく、なにか失態をした時に、知らず知らずのうちに、昔の自分のせいにする。このブログを機にそれをやめにしたい。

 

 

「すべきこと」のうちで、「できること」を、「やりたい」ようにやる奴の就活

「すべきこと」のうちで、「できること」を、「やりたい」ようにやる

という基準で世の中を生きている。

すべきこと、というのはなかなか学生のうちにはわからない。例えば「ちがい」を認めすぎれば「おなじ」がなくなり、度がすぎると秩序を失う。「ちょうどいい」くらいがいいけど、それは何を基準で判断するのか。「過去」だ。「ちょうどいい」は「過去」からしか判断できず、それは自分の経験や他人の経験、他国の事例や、自国の歴史、そういったいろんなサンプルから「ちょうどいい」を判断するのだ。果たして、それが就活生に可能だろうか、、、?無理だ。たいてい無理だ。

 

だから、就活の時には先の基準を少しいじらないといけない。「すべきでないこと」のうちで、「できること」を、「やりたい」ようにやる、だ。これで、大抵は、先の価値基準を持ち合わせてる奴はうまくいくが、一つ問題があるのは「やりたいこと」を「ビジネス」を通しても「やりたいこと」になるか、だ。例えば、ここに社会について「議論」という手段を用いて「真理」に近づくのが好きな奴がいるとする。この「やりたいこと」は「すべきこと」のうちの「できること」であったので、それをビジネスにしたいと考える。そこで、金になるようにするために、You-Tubeで議論の様子を流す。そうなると、PV数を稼がないとビジネスにならないわけだが、PV数を増やすためには、刺激的なことを言わなければならない。そうして、新しい理論や仮説を提案する時間を増やすと、気が付いたら「真理」に近づくことができなくなる。結果、本質的ではないのでやりたくなくなる。こんなことになりうる可能性がある。

 

だから、「やりたいこと」の「本質」がビジネスを行っても保持されるか、を気をつけながら就活をしなければならない。この「本質」を判断するのが難しい。また、多くの人がここに目を向けていると、それがやりたいことであった理由は、それを「一緒に行った仲間」がよかったから、ということになるだろう。

 

その「仲間」と一緒にビジネスができれば万々歳だが、そうならないのがほとんどだ。だから、その好きだった仲間のまた「本質」をみなければならない。仲間の顔か性別か頭の良さか良心か。おそらく、一つと決めることはできず、必要な要素が適切な程度にある場合に、その人は、心から好きだと言える「仲間」になりうるのだろう。

 

そうして、その仲間の本質がわかったところで、次は、その本質が同質な人の集まりを嗅ぎ分けなければならない。誰でも嗅ぎ分けることができるコツは、プライベートな空気をつくって、プライベートな話をいっぱいすることだ。そうすることで、その仲間の腹が見えてくる。

 

こうやって、「すべきでない」ことのうちで「できること」を「やりたいように(やりたい人と)」やる、が定義されたら、あとは、幾つかの会社を受ければよい。程度の差はあれど、受けた会社は、あなたにとって十分なほどの環境が整った会社で、どの会社に受かっても「有り難い」のである。受からなかったら、それは、そのまんま、その会社は、他の人と比べた時に、あまり、あなたと一緒に仕事をしたいと思わなかったのである。

 

こうやって、自分に言い聞かせて、就活を頑張る。

 

年が若く、根本にある考え方がマイノリティーの人は、ワンピースを参考にするといい。

この国では言挙げにリスクが伴いやすい。特に本音についてだ。

本音には大体そのコミュニティーの秩序に関わる大切なことが含まれている。物事を考えるためのベース(基盤)の部分が本音にある。そのベース(基盤)の部分が周りと異なれば、他人が自分から離れるリスクが上がる。例えば、「一番になるのが最優先事項」だとされているコミュニティーの中で「一番になることは結果であって、目的にすべきではない」といった類の本音は言うと大変だ。そのコミュニティーの存在意義が揺らぐかもしれないからだ。彼/彼女はそれに合わすことができなければ、大体そこから離れる。できるだけ、波風立てず、こっそりと、そのコミュニティーに迷惑をかけないように抜けるのだ。

ところが、こっそり抜けられにくい場合がある。それは、そのコミュニティーが大きい場合だ。この場合は、簡単には抜けられない。例えば、日本人というコミュニティー。今は「やりたいことをやるのが一番」という人生にあり方に関わる判断基準が広まっている。ここに「やるべきことをやるのが一番」という人生のあり方に関わる判断基準を持ってしまった日本人がいるとする。流行りの判断基準にとってこの判断基準にとっては不都合な存在だ。人生のあり方に関わる大切な問題なので、前者は後者を否定するしかなくなる。そうすると、その日本人は日本を移動しようと一度は考える。しかし、それの代償はでかいし、移動したところで手に入るかもわからない。そこで、彼/彼女は大抵、プライベートでこっそり同士を探すか、パブリックに大胆に同志を探すか、だいたいどちらかの選択をとるだろう。前者は、敵は増えないが、仲間を見つけにくい。後者は、敵を増やすが仲間を見つけやすい。どっちも一理あるので、中間を探そうか、いやいや、そんな適応主義的な選択はまだ受け入れられない。若いんだから他のもっと接客的な可能性に賭けたいんだ。妥協をしない選択肢。「同志を増やす」という方向だ。そこで参考にしたいのが「ルフィー的巻き込み法」だ。

 

ワンピースとは、一つなぎの大秘宝(ワンピース)というものをみつけるために、旅をする海賊の話である。主人公ルフィは、その旅を共にするために仲間を「ゆっくり」かつ「多動的」に集めていく。「ゆっくり」というのは、他の海賊のように大っぴらに募集するのではなく、旅の途中で、寄り道を多分にしながら、たまたま出会った気に入った仲間を、ルフィが(半ば強制的といっていいくらいの勢いで)勧誘するということ。「多動的」というのは、一つの島に居座ることなく、一つ目的を達成したらすぐに異なる島に移住し、直接的な出会いを多く生むということ。このように「ゆっくり」かつ「多動的」に人を集めていく中で仲間になる前に大体起こるお決まりごとがある。それは「衝突」だ。一人の仲間が仲間になる前には大体、武力によってか、或いは、言葉によってか、大なり小なり何かしらの衝突を起こす。そうして、雨降って地固まり、強固な信頼関係ができあがる。これが、大体のルールだ。もちろん例外はある。ニコロビンはよくわからない取引から仲間になったし、ブルックは争ったわけではない。しかし、時系列は若干ずれても、どこかで争い、どこかでルフィが「お前が必要だ」と言ってくれる(だろう)。

 

これだと、確かに敵は増えにくいし、根本の大切な何かを共有しあっている確かな仲間を集めることができる。行動は多動に、人選は慎重に、勧誘は豪快に、差異に素直に。これが、上記で述べたルフィ海賊団のスタイルだ。

 

しかし、確かに大変なこともある。なにぶん人数がやはり少ないので航海が大変だ。予想外の危機の時はマジで大変そう。それでも、それも何か一つのアトラクションのように積極的に受け入れ、楽しんでいるように見えるのがルフィ海賊団である。もはや、大変なことこそが、彼らの旅のスパイスになっているといっても過言ではない。ルフィなど、わざわざ敢えて危険な島に向かう人物である。このような姿勢があると、もはや人数は多すぎないことを望むかもしれない。

 

 

・・・・・で

 

 

テーマのことを主張するにはもう十分なのだが、あと一つ、ルフィー海賊団には素敵な魅力があるのでもう少し語ってみる。これは、「マイノリティー」にはあまり関係がない。

 

彼らの一つなぎを秘宝を追い求める姿勢が素敵だ。レイリー(海賊王の元副船長)との出会いがあった時、船員の一人ウソップが宝の在り処を聞こうとする。すると、すかさずルフィーが止めに入るのである。ここに人生の醍醐味がつまっていると思っている。以下のシーンである。

www.youtube.com

 

このシーンの「旅」を「人生」と言い換えながら観て、今でも自分の人生観に影響を与えている。

人の生には意味があるのか、あるいは、あるとしたらその意味とはなんなのか、それはいまだにわかっていないことだ。だからといって、意味は無いと構え、それを模索する姿勢が一切なくなると、生きることができない。だから、いつかそれが、ずっと先に見つかると信じて、生きてみるのである。普遍的なものか、個人が見出すものなのか、それもまたわからないけど、とりあえず信じてみるのである。

これまで、多くの人が、生きる意味があると信じて生きてきた。その証としての歴史であり、その上に、或いは、その中に、生きていて、生かさせていただいているのが我々、今を生きている人類である。この世の有り様を全て知った時、ある一つの境地に達するはずだ。その境地から世を眺めた時、自由意志を獲得しているはずである。

今では、そんな風に聞こえて来る。

 

これは、目的を持って生きた方が充実する、といったような個人に焦点を当てたライフハックのような話ではない。「した方がいい」とか「役に立つ」とかそういう次元の話ではなく、普遍的な人生哲学をルフィーは説いたのである。「そうなくてはならない」という世界公理を説いたのだ。ワンピースの世界における「海賊」が「海賊」であるためには、先のような姿勢を保つのが必須であるのだ。そういっているのである。

 

また、もう少し加えておきたいこともある。「人生の意味はわからない方がいい」という仮説もこの短いやりとりから伺える。「分かる」というのは「終わり」を意味するからだ。例えば、食べられないパンを考えている間は、答えを見つけようと進んでいるのだが、フライパンだと分かれば、活力が損なわれる。でも、ピーターパンやカトパン等、他にも答えになりうる候補があれば、活力は少しばかり残るのだ。本屋にいけば色々な生き方の本が立ち並んでいるが、これは、人類の生きる意志を育むための一つの工夫なのだ。

 

 ・・・・・。

 

最後に、夏目漱石草枕を引用する。

 「に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」

インターネットの普及や交通機関の高度化によって、使い方によっては、目的のあるコミュニティーをつくり、存続することが容易になった。絵や詩へ想いを吐き出すこと以外の選択を選べる時代になったのである。