自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

ストラテラ処方録 ①(最初、気が入っている)

ADHDと名前をつければお薬関係の会社はウハウハだ。

薬はまやかしのようなもん、みたいなことをよく聞くが、僕の使い始めたストラテラもその一種かもしれない。

よく改善した事例があげられるが、それは単にプラシーボ効果によるものなのかもしれない。

ADHDは、というより僕は早とちりや勘違いは少なくないし、読み手には不要かもしれないことも含まれているので、読むならそちらで調整してほしい。

 

*記事を書いたのは飲み始めて13日目。最初の方は少し記憶が曖昧。

 

まずは、飲み始める前のこと。背景がないと薬の効果が明瞭にわからないから。

①2018年4月から。院2年。修論をほったらかしにゲームばかりして完全な引きこもり。ゲームや動画のせいで遅くに寝て、遅くに起きることがしばしば。昼夜逆転の生活が続いていた。希死念慮あり。twitterの使用なし(僕のtwitterではその日考えた大事なことを思いついたらすぐメモするようにしている。その日の知的好奇心や思考の質を見る指標として)

②8月10日(薬を処方する約一ヶ月前)に親や先輩に劇を飛ばされた1日があってそれから、生活を変える意識が強くなる。それから、少しずつゲームから離れて、少しずつ感覚が健全なものに。週一のカウンセリングを受け始めることを決める。twitterで長文の更新を2度。

③8月20日から9月2日の間。意識が行動に現れ始める。完全な昼夜逆転の生活を送るのが半分に。4-6時には寝れるようになる。これまでの3回のカウンセリングのうち2日間は10分と30分の遅刻。何事にもやる気はでない。学校に行っていた頻度は週4。希死念慮弱め。twitterの頻度は4回。

④9月3日。寝坊し病院に行けず。落ち込んで9月7日まで昼夜逆転の生活に元どおり。カウンセリングを1日忘れた。twitter使用なし。

⑤9月6日

健全な意識を少しずつ取り戻し始め、③より少し良い状態へ。興味のあるゲームの対象が変わり始める。twitterの使用14回。

⑥9月12日。病院でストラテラ取得。病院では、診察結果の入ったファイルをなくし約40分滞在。

 

ここからストラテラを処方し始めてからの日々、、を伝える前に先に共有しておくべき情報がある。9月20日に内定者交流会、24日に内定先でのBBQがあって、このイベントが自分の意識を変えている側面が強いこと。

では↓

 

期間A(9月12日-9月17日) 内定先に対しての緊張感が比較的小さい期間

人狼で嘘をつくのがうまくなって勝率上昇。13日にゲームをしていて「気が付いたらこんな時間」がなかった。15日に(ゲームが悪質なアップデートをしたこともあるのか)プレイしなくなった。朝起きれるようになった。時間通りにカウンセリングに行けた。希死念慮なし。SNSの使用頻度が毎日。情報の収集時間が1日のうち6割。知的好奇心の増加。友人との待ち合わせ時間に間に合う。

×喉元に薬が詰まった感じ。お腹に不快感。コンビニの食べ物に食欲がわかなくなる。

期間B(9月18日-24日) 内定先に対しての意識が強くなった期間

△変化がないと確認できた部分

内定者交流会での会話の様子は昔とあまり変わらず。少し話しすぎ、少し脈絡がなく、少し話を聴き漏らす。

友達とあったが気が回らないのは相変わらず。議論でない雑談が苦手。自分の注文した串を忘れる。一度失態があると落ち込む。人の話を全て把握できない。エスカレーターで別のことに関心が向いてスーツケースを倒した。

多動傾向。

◯カウンセリングを時間通りに。気まずくて行けなかったゼミに数ヶ月ぶりの参加。ブログを使用した自己分析開始。本を読むようになった。ツイッターの使用頻度が最大値の1日3回ほど。難しい記事を好んで読み始める。ネカフェを散らかすことがなかった。スムーズに東京まで行けた。以前までは必ず東京への行き帰りにおいて便の勘違いや乗り遅れで大変困難があった。東京行きの準備がきちんとできた。領収書をほとんどもらうことができた。携帯やパソコンの充電の様子に気が回るようになった。ずっと連絡の取っていなかった彼女に連絡が取れた。酔ってネカフェに行った後、友人との飲み会に落ち込んで脱力感がやばかったが、すぐにシャワーも浴びて寝る体制に入れた。

×薬を飲んだ直後の不快感が酷いことに気がつく。特にお酒を飲むと不快感が増す。頻繁に夢を見て、その度に半分起きる。以前は3.5の倍数で起きると目覚めが良かったが、日が経つごとに一定時間におけるノンレムの周期が頻繁になってきているように感じる。

?変化があるかもしれない部分

不必要だ!と思う妄想が減った。言って後悔するようなことを言う機会が減った。

 

 

今後

未来にできることは増えるが、現在はできないことがおおいことをわきまえて、

その上で自分の当面の目標を立てないと。

 

僕が一番嬉しいのは、認められた時。でも認められ方にもいろいろあって、何か助言や後押ししたときに「おかげで」といわれたとき。自分の見た目や頭を褒められても嬉しいけど、そこまでで、やっぱり誰かのためになったとき。そのときにマウンティングの快楽も正直あるが、単純に力の比較によるものだけだとやっぱり虚しい。自分の「嬉しい」には「人」が関わる。そして、自分の原動力もまた「人」だ。

 

そんな「人」について今の所わかっているのは、みんな誰しも悩みを抱えていて、それを「捉え方」を変えて悩みを受け入れる人もいれば、「実質」を変えて乗り越える人もいるということ。どっちも大切で、捉え方を変えるだけだと、多くの他人が別の捉え方をしていてその価値基準が一気に流入してきたら耐えられないし、「実質」を変えても、その実質を変えるときに使った鋭い批判的思考がまた新たな変えられるべき実質を作り出す。だから、悩みは尽きないと認めた上で、捉え方も実質も変えるんだ。いや、もしかしたら、「変える」ことに注視するから、達成できずに苦しむのかもしれない。「変えよう」とする"姿勢"があれば十分だと構えれば、窮屈に感じることなく、自分を大切にしながら人と関われるんじゃないか、、、といったように、ここから先はいろいろと議論ができる。

 

兎にも角にも、これまで24年間振り返り、いろいろな変化があったにせよ、僕が「人」を原動力としているところはずっと変わらない。今後も「人」が原動力になるから、自分の未来立つであろう志も「人」に関わるし、当面の目標も「人」とどう関わるか、という話になるだろう。

 

どうしても自分が関われば負の側面ができるんじゃないかと不安になって、迷いが生じる。この世の摂理として、変化があれば必ず負の側面が生じるというのはわかっているが、それがまだ許せないでいる。何かしら「間違いない」ものがあるんじゃないかと期待をしてしまう。これは、今「間違いないもの」は「ない」と割り切ることも無理やりなんとかすればできるかもしれないが、どうも「間違いない」と言い切るような言動をしている先輩方を目にして、彼らの景色が「気になって気になってしょうがない」早くありきたりなもしかすると誤った道を歩んでしまうのであれば、ゆっくりでいいから、確実な間違いない道を歩む方を選択したい。そんな道があるかはわからねども、あると信じてその道を進みたい。ワンピースみたいな感じだ。

 

だから、僕はそれを探し続ける。その道を「真理」と名付けたい。「真理」っぽいものが見えたときには年になっているかもしれないが、それでもその年から自分の道を歩みたい。自分は置いてけぼりになってしまっているが、誤った道を突き進むよりはマシなはずだ。道をよく間違える自分ならそれが実感としてわかる。

 

だから当面の目標は書物を読み漁り、考え、経験し、それらしいものを探す。「活動」と言われるものもその「真理」を探すところに直結するものを。仕事においても、万物には「真理」が眠っているかもしれないので、真剣に打ち込んでみるのだ。

 

具体的な志は立てることはできないが、これがじぶんの 当面の目標だ。「真理」がうっすらわかったときに、そこに向かえるように、そして導けるように、自分の心の中にあるまだ小さな小さな「思いやり」と「誠意」をしっかりと育てていく。

 

周りのみんなみたいなキラキラとしたものではないが、これが自分だ。

 

そうなるためには、「創作」と「読書」が必要だ。実践と思考を絶えず行う。僕にとっての実践とはなんだろうか。

 

「再びせば、可なり」一定の期間に同じことを何度考えても同じである。

自分の歩み方がわからなくなった時、この記事を見て初心に戻る。

自分の取り扱い説明書(永久保存版)

一度、覚えたことやわかったことをすぐ忘れてしまうことがある。

だから、精査した言葉でまとめると、ほんの少し生活がよくなる。

 

・自己成長につながるようなモチベーションが湧く環境

移動時。

飛行機やバスは寝てしまうことが多いが、電車や徒歩をしている時は、知的欲求が高まる。空港は最高の学びの環境。遠くに行けば行くほど、というより、コストがかかるほど集中できる。

近いうちに自分が評価されるような出来事が待っている時。

・モチベーションが落ちる環境

一人でいる時。油断する。家が一番やばい。次に研究室など、周りの目を気にしないでい時。自然の中でたたずむのは一人であるにもかかわらず意外に集中できる。

・モチベーションが湧くツール。

言語化を行う時はワードよりHATENAブログの方が。メモもメモ紙よりツイッターが。

・スケジュール管理

スケジュール帳よりタイムツリー

・時間が守れる(朝起きれる)時。

前日に気合が入っている時。早く起きることができる。前日に準備をする気概が生まれない時は、すぐに朝準備するように切り替える。朝準備すると油断して適当にしてしまい、必ずドタバタになる。

・掃除ができる時

他人が家に来る時。

・食生活が悪くなる時。

心が不健康な時。

・ゲームをやる時。

何事にもやる気が出ない時。

・ゲームをやめる時。

ゲームをはじめてから20分以内とゲームをやりすぎて疲れ果て、眠気がおそってきてどうしようもない時。

・ハイクオリティーな結果が出せる時。

無意識になったとき

・優先順位のつけ方

締め切りがせまっているもの。重要度は判断し損ねることが多い。

・落ちつける時。

ゆったりした音楽を聞いて一定時間精神統一を図ること。落ち着くことが落ち着く方法。

・しっかりと話せる時。

誠意を意識している時。真剣な時。実経験に裏打ちされたことしか言わない。

・後で後悔する話をしてしまう時。

焦る時。相手を魅了させようと考えた時。場を盛り上げようとした時。

・しっかりとした考え事ができる時。

きっかけがあってからの10分間。それ以降は蛇足。ツイッターの2投稿目を消してしまうことが多いことからエッセンスは最初の180文字以内で大体収まる。

・筋の悪い考え方をしている時。

なんども何度もそれを考えている時。やりたいVSすべき、とか視点を変えないからずっと回る。言語化する必要がある。

・筋のいい考え方をしている時。

ピーーンときた時。

・素直になれない時。

自分にとって都合の悪い話をされた時。相手の世界の中ではそれが都合がいい。

・素直になれる時。

落ち着いて、自分をみつめて、理解して、うけとめて、それがどういう風に正当なのか言語化をはかって、頷けた時。

・人の話を聞けない時。

別のことに関心が移ってしまっている時。その人の本質をよく見極めようとする姿勢がない時。誠意がない時。

・人の話を聞ける時。

相手に心から敬意を払っている時。自分がかなわないと相手のことを思っている時。

・テンションが上がる時

効率的だと思われる作業をしている時。

・人に会いたいと連絡が取れる時。

お金と気持ちに余裕がある時。やるべきことはあるがそれがどうでもいいと思う時。

・誠意ある対応が取れなくなる時。

何かあって連絡取るのが遅くなった時。遅くなったことに対しての罪の意識が一層罪の意識を強める。

・本がぐいぐい進む時。

内容にアハ体験。

交通機関を間違える時。

自分はできると思っている時。確認を一つ一つ細かに入念に、そしてデモンストレーションを済ませた時は間違えない。

・地図の見方を間違える時。

面倒になって「間違いない」という確信なく進む時。これはボス。

・話がカミカミになるとき

かなわない人と話をするとき。

・雨の日

必ずダラけるので神社に行け。心の穢れを取り払え
全てに共通していることは、他人の意識を身近に感じていればしっかりできる。

ただし、他人の意識が身近すぎると緊張する。

 

怒り

西部さんの自裁死を手伝われた方、窪田さんが懲役二年の有罪判決が出されたようだ。

正直な話、怒りと悲しみを覚える。

西部さんの死への冒涜でありながら、窪田さんの良心を一切無視する判決だ。

ほんとになんて国なんだろうと失望する。

明らかにおかしい。価値観はそれぞれだといいながら、法律の価値観はそうにはいかない。

最もらしい価値観が反映されているのが法である。

にもかかわらず、それがあまりにもおかしい。

生命至上主義の愚かさがこの判決ににじみ出ている。

こんな法に守られたくない。というより、法に脅かされている。

健全な良心を持つ者ほど、法におびえながら生きなければならないなんて、あまりにもひどい話だ。

こういう法が改正されないのは、ぼくら国民が違和感を持っていないからだ。

つまり、法が腐っていると言うことは、僕ら国民が腐っていると言うことだ。

西部さんの自裁死を手伝ったのは、窪田さんよりむしろ、生命至上主義を信じるほとんどの国民である。

超クズ期を経て自分とは。。

ガチ引きこもりクズ中のクズ生活を始めて半年。

慣れてきた。

就活も終えて、外に強制的に出る手段がなくなった。

思想の異なる会社に入るということで、頭の中の改造を図った。

自由主義進歩主義に異を唱え、歴史のふるいにかけられてもなおよいとされて良習を宗教として力強く生きてみたが、徐々に窮屈を感じ始め、自分の将来を考えた結果、やめようと思った。

好き勝手に生きてみた。

終日ゲーム、すべきことはほとんどすべて放り投げた。

恩を仇で返した。迷惑や心配をかけた。社会的には最底辺の生活をした。

ゲームはよかった。面倒なことから目を背けることができた。

その中では、責任の伴わない人気を得ることができた。

快楽だけの世界。悪くなかった。だが、リアルの事情が頭をよぎった。

それが時折、自分を苦しくした。

結局、リアルの人が正気と呼ばれる世界に自分を連れ戻した。

今は、正気の世界の秩序に則って、自分の意思を働かせようとしている。

しかし、それもまた大変だ。動機が外にあるからだ。

なかなか動けない。そうして、整理のためにブログを書き始めた。

このブログでは、自分を正気の世界に戻すために、自分の心の志向が正気と呼ばれる世界の秩序との整合性が取れていた時期を思い出すことを目的としている。

過去のそのような内的な動機に端を発して、「まっとう」と呼ばれる行動をしていた頃を思い出せば、きっと結論では、「"本当は"自分はこういうまっとうな世界で生きることを望んでいる」という旨になるのだろう。というか、そうなるように文章を綴る。

 

過去を思い出せ。どの時期が最も胸が高まったのか。

それは大学1-3年生の頃。自分が心から好きだった人をパートナーとして一緒に一生懸命、社会活動をしていた。

毎朝、早く起きると、サークルのみんなで建てたTOEIC800以上というゴールを達成するために、最低2時間は英語の学習を行った。

休日には、いろんな新体験があった。洒落た店にいったり、こだわりすぎたBBQをしたり、長期休暇では、一味違う海外遠征をおこなった。ユニークな体験を他人に自慢して誇らしかった。何者かになれていたような気がした。

 

都合の悪いことには無いことにするか異なる事実を捏造するものだ。だから、この時の記憶が良きものかどうかはわからない。でも、どうだろうか。大学4年の頃は同じように思っていたのだろうか。

否。

その時は、こう考えていた記憶がある。

大学1-3年時より今の方が素晴らしい。色恋には縁遠くなったが、それとは引き換えに、人間的に成長した。できることが増え、思いやりのある人になった。社会の構成員としての自覚を強く持つことができるようになった。なにより尊敬している人に近づくことができた、と。

どうして今は、大学1-3年生の記憶が最も輝いてみえるのだろう。

自分の今の理想の姿に近いのが大学1-3年生の頃であったからだ。

 

自分の本当にしたいこと、なりたいこと、それは結局、「経験」というサンプルを組み合わすことでしか創造することができぬ。

自分の本当にしたいこと、なりたいこと、それは結局、「感情」という現在で常に揺れ動く波によって方向性が定められてしまう。

自分の「本当」を問うことがばかばかしく感じてしまうが、残念ながらそういうものだ。

そうだと構えて生活する他ない。

 

うだうだ「それっぽい」ことを恥さらしなドヤ顔でタイプしてしまったが、こんな無駄な文章の中から少し自分の支えになりそうなものが見つけられた気がする。

 

自分はこれまでの人生で始めて「現在よりも過去がよかった」と思っているという事実を発見できた。

これは明らかである。つまり現在の自分が明らかに嫌いな自分なのである。ただ評価基準に変化があった云々の問題ではなく、どう考えてもやはり現在の自分のことは好きではないのである。

 

自分のことが好きになれるように、好きになれる自分になろう。

あぁ、駄文長文失敬失敬。

 

 

 

 

 

志を棚置きするということ

学生時代に色々と頑張った。

立派な人物になることを夢見て。

結局、十分な結果が出せなかった。

自分の怠惰と能力が原因で。

何度も今日から変わると決断をした。

意識さえ変われば能力の伸びは埋め合わせできると信じた。

けれど、高い意識は長続きしなかった。

失敗を繰り返し自分を信じられなくなった。

そうして迎えた就活。

 

ダメな自分を認められなかった。

だから高望みをした就活。

身の丈に合わずうまくいかない日々。

折れた。

高い志に達するのに、まだ十分な器を持っていないことがわかった。

いったい自分の本当の器ってなんだろか。

 

意識の向かっている方向とその力強さのことを自分と呼んでいた。

しかし、意識している所には達することができないことが薄々分かってきた。

認めたくない。認めたくないけど、自分の過去は認める他ないと告げている。

認め始めた。

できない自分が浮かび上がる。

汚くて弱い、頼りない自分が見えてくる。

その自分の就活は暗い。

どこの会社に行っても、自分の仕事の様子を想像すると憂鬱になる。

自分の未来はこんなはずではなかった。

残念ながら、僕の人生はこんなもんなんだ。

しかし、こんなもんではないか。

人生は物語である。

どんなに惨めに感じることがあろうとも、それはいつの日か人生のスパイスになっているかもしれない。

それをスパイスたらしめるのは、僕の意志の強さと戦略の精度である。

僕の人生はこれからだ。

これもまた人生だ。

人生は何が起こるかわからない。

だからこそ、生きられずにはいられないのである。

 

ADHDが新卒で会社に入るということ

新卒は最初の数年間は使い物にならない。

短期記憶能力の低いADHDにおいてはなおさらだ。

さらに衝動性のあるADHDは容易に離職する。

会社にとって当該気質を持つ人の採用は賭けなのである。

そんなリスクを背負いながらも会社は彼らを雇う。

面談の時に語った彼らの熱意を信用して。

キラリと光った才能が開花することを望んで。

時には、情けとして。。。

僕らは、それらに感謝をするのである。

そうして誠意を見せなくてはならない。

恩返しができないからだ。

単純な作業ができず、

言われたことを把握できず、

空気が読めない。

ものを無くし、

時間は守れず、

すぐに忘れる。

最初に唯一新卒ができるようなことはほとんどできず

さらには迷惑をかけ余分な仕事をさせてしまう。

工夫して直そうとしても十分なほどに達する人はわずか。

だから、精一杯申し訳なく思うのだ。

心を込めて謝罪をした後、先輩にきちんとしたお礼を、そして自分の少し成長した姿をきちんとお見せする。

こうして、愛嬌のある後輩になる他、生存し得ないのだ。

定期的にプラスのことをやってみる。

意味はないかもしれないけど会社の迷惑にはならないプラス1を。

自分の扱い方がわかるような説明書をつくる。

毎日自分の反省を書いた日記を公開する。

新規事業や業務サイクルの改善等の案を提出する。

僕らは人より何かに劣る分、自然に意識が高くなる。

その意識の高さを公開するのだ。

それが職場の士気を高める。

ぼくらは、それくらいの覚悟をして職場に入らねばならない。

雪山に登るような覚悟をするのだ。

常にきつく、常に冷たく、常に危うい道である。

頂上は見えず、進んでいる道は正しいのか、降りるか降りまいかの自問自答が繰り返される。

降りれば皆から見下され、それもまたつらい毎日だ。

楽に登れる山はあるが、それもまた見下される。

高い低いなんて気にしない。

そんな思いも娑婆に出ればすぐに打ち消される。

だから、気力のあるうちは雪山を登り続けるしかない。

それが僕らの歩み方だ。