自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

今後

未来にできることは増えるが、現在はできないことがおおいことをわきまえて、

その上で自分の当面の目標を立てないと。

 

僕が一番嬉しいのは、認められた時。でも認められ方にもいろいろあって、何か助言や後押ししたときに「おかげで」といわれたとき。自分の見た目や頭を褒められても嬉しいけど、そこまでで、やっぱり誰かのためになったとき。そのときにマウンティングの快楽も正直あるが、単純に力の比較によるものだけだとやっぱり虚しい。自分の「嬉しい」には「人」が関わる。そして、自分の原動力もまた「人」だ。

 

そんな「人」について今の所わかっているのは、みんな誰しも悩みを抱えていて、それを「捉え方」を変えて悩みを受け入れる人もいれば、「実質」を変えて乗り越える人もいるということ。どっちも大切で、捉え方を変えるだけだと、多くの他人が別の捉え方をしていてその価値基準が一気に流入してきたら耐えられないし、「実質」を変えても、その実質を変えるときに使った鋭い批判的思考がまた新たな変えられるべき実質を作り出す。だから、悩みは尽きないと認めた上で、捉え方も実質も変えるんだ。いや、もしかしたら、「変える」ことに注視するから、達成できずに苦しむのかもしれない。「変えよう」とする"姿勢"があれば十分だと構えれば、窮屈に感じることなく、自分を大切にしながら人と関われるんじゃないか、、、といったように、ここから先はいろいろと議論ができる。

 

兎にも角にも、これまで24年間振り返り、いろいろな変化があったにせよ、僕が「人」を原動力としているところはずっと変わらない。今後も「人」が原動力になるから、自分の未来立つであろう志も「人」に関わるし、当面の目標も「人」とどう関わるか、という話になるだろう。

 

どうしても自分が関われば負の側面ができるんじゃないかと不安になって、迷いが生じる。この世の摂理として、変化があれば必ず負の側面が生じるというのはわかっているが、それがまだ許せないでいる。何かしら「間違いない」ものがあるんじゃないかと期待をしてしまう。これは、今「間違いないもの」は「ない」と割り切ることも無理やりなんとかすればできるかもしれないが、どうも「間違いない」と言い切るような言動をしている先輩方を目にして、彼らの景色が「気になって気になってしょうがない」早くありきたりなもしかすると誤った道を歩んでしまうのであれば、ゆっくりでいいから、確実な間違いない道を歩む方を選択したい。そんな道があるかはわからねども、あると信じてその道を進みたい。ワンピースみたいな感じだ。

 

だから、僕はそれを探し続ける。その道を「真理」と名付けたい。「真理」っぽいものが見えたときには年になっているかもしれないが、それでもその年から自分の道を歩みたい。自分は置いてけぼりになってしまっているが、誤った道を突き進むよりはマシなはずだ。道をよく間違える自分ならそれが実感としてわかる。

 

だから当面の目標は書物を読み漁り、考え、経験し、それらしいものを探す。「活動」と言われるものもその「真理」を探すところに直結するものを。仕事においても、万物には「真理」が眠っているかもしれないので、真剣に打ち込んでみるのだ。

 

具体的な志は立てることはできないが、これがじぶんの 当面の目標だ。「真理」がうっすらわかったときに、そこに向かえるように、そして導けるように、自分の心の中にあるまだ小さな小さな「思いやり」と「誠意」をしっかりと育てていく。

 

周りのみんなみたいなキラキラとしたものではないが、これが自分だ。

 

そうなるためには、「創作」と「読書」が必要だ。実践と思考を絶えず行う。僕にとっての実践とはなんだろうか。

 

「再びせば、可なり」一定の期間に同じことを何度考えても同じである。

自分の歩み方がわからなくなった時、この記事を見て初心に戻る。