自分分析学

言葉にしてみたい衝動の行き先

悟り

世の中ってのは多元的で流動的な領域が重なり合ったり、お互いを押しのけたり、溶け出したりしているもので。その領域は領域を作るゆえにその構成要素は同質にみえたり、異なる種の要素が同率に含まれていたりして見えて。さらにその領域を1と呼んだり個と呼んだりして僕らはそれを「在るもの」として

みているわけで。それが在るためには異とするものがあらねばならないのでぶつからなければならず。そうしてぶつかるとどちらかの領域の力が強く、どちらかの領域が変形するわけで。変形した時に、それがそれたらしめていたもの、つまり本質からそれが外れてしまうと、それがなくなるわけで。

 

つまり存在するには異に反発し本質を保たなければいけないわけで。この本質を保つにはできるだけ似たような領域と接するのがよくて。つまり存在するためには周りを似たような物、本質が極めて近いものを適切な配置にしなければならず、その似た領域群は中心から遠ざかれば遠ざかるほど中心とは異になる

 

そうしてできあがった似た領域群の本質を規則性を見ると体系的なものができあがっていて、それを我々は秩序と呼んでいる。つまりそれぞれの領域が安らかに存在するには秩序は必要不可欠になってくる。その秩序の維持はその秩序に属する領域の生存には不可欠なので本質がその秩序と異なりすぎるものは


秩序を脅かすので排除せざるをえない。この意味で秩序の外側に位置する少数は秩序を形成する多数のために常に存在が脅かされている。これまでの人類の歴史は、秩序の外側にある領域や秩序外の領域にその領域群の中心にある本質を流入させ秩序に組み入れたり秩序の強化を図る営みであった。

 

しかしその領域群より小さな秩序ある領域群からすれば逆の話で自より強い領域に合わせなければならないので、少しずつ本質から遠のいていて、無秩序化し、存在が脅かされているのである。この意味で、秩序化されるということは、中心以外は最初はよく安定するが少しずつ不安定化し危機にさらされている

 

それが我々の世界であり、この秩序維持のために真善美といった価値基準がそれぞれの領域で特有に形成され、同時にその価値基準自体が本質になり存在している。さて、この世に存在するというのは突然その世界に領域が誕生するというわけだが、その原初的なそれを自己と呼び誕生した瞬間から拡大する。

 

原初的なそれは不動であり変動しているものであり他も同様のものである。拡大は、その自己の周辺にあるもののうち取り込めるものを取り込み、また同時に排除も取り込む過程で必然的になされ、新陳代謝のようなものを繰り返しながら自己が形成される。少しずつ周辺の異に同化し始め安定した時1となる

 

少しずつ存在が固定化し摩擦が生じ存在できる場所が限られてくる。そうして大いなる秩序体系のうち適した場所に位置することができた時、その存在は安定化する。その状態を「すきなこと」「最高」「幸せ」といったようなプラスの言葉で表現をしている。

 

では、どのような状態が存在のために好ましいかというと、周辺の領域が極めて同質的であり、さらに変化も緩やかな状態が存在のために都合がよいとされる。これを究極なものとして俗に実装するとなると生まれた瞬間無人島で親二人と過ごすような状態になる。お互いを深く知り異を遮断し緩やかに過ごす

 

しかし、そんなことは難しいので、存在に本質的に生きるのであれば、少人数でコミュニティーを形成し意思疎通を入念に行い同質性を高め緩やかに変化し、同時に外圧に耐えるためコミュニティーで力を合わせ反発の力を強め防衛線を引くのである。このコミュニティーの象徴的な存在が宗教団体である。

 

しかし、それは最適ではなく、最適は一切の摩擦・反発がない状態なので、他が気になれば一を全にする方向に向かわざるをえなくなる。つまり統一である。この意味で、個人化・科学の神化・学問の細分化・多様化・急進的な変化・グローバル化といった分化拡大は個人の存在に反する非本質的な流れである。

 

「罰」とは秩序を乱す因子を一時排除し、秩序化を施してから、秩序に戻す行為のことをいう。 「責任」とは、領域に属し自己の安定化を図る以上はその領域の秩序化に努めなければならないことを言う。

 

自己分析による「自己の発見」とは時事刻々と変わりゆく自己をある期間毎で区切ってその輪郭を現し、その共通する部分を抽出したもののことをいう。 悟りによる「自己の発見」は一切の外界の領域を消し去って、自己の境界が溶けてゆく時に残る最後の自己を発見することをいう。

 

つまり過去の自分を詳細に言語化すれば悟りによる自己に近似した自己を発見できる。 「責任の所在」は本来は全ては関係し合っているので原因は全てにあるのだが、それは認知ができないので平均的認知の広さで見た時に、最もその秩序を乱したと思われる領域に課されるのである。これは非道なことである

格物致知誠意正心 

修身斉家治国平天下

 は、以上のような物の一般的な道理を知り、次に具体的な現象を鑑みてその適切な動かし方を知り、そして自身の意思という付属的に形成され、しかし自己の一部として確かに固定化されているものの変質させ、また、原初的な自己である心を正すことで一切を道に近いものにし、それから、少しずつ現象を変化させていこうとする流れである。外から内へ、そして内から外へ、というのがこの言葉のおおきな流れである。